第三部 丘の上の老人
「──新月の夜、第二小隊は、村を囲む。儀式が始まる前に、中心にいる老人と神官どもを押さえる」
丘の上の、野営地。焚き火を囲んだ小隊長が、地面に枝で、村の形を描いた。
第二小隊の騎士たち。それから、私と、イザベラ様と、マークと、トマスさん。
「ひざまずいている連中が邪魔をするなら、力づくでもどかせる。……三百人はいる。こちらは二十人。ためらっている暇はない」
「──待ってください」
私は、立ち上がっていた。
「あの人たちは、悪いことをしようとしているんじゃありません。病気を治してもらったと信じて、祈ってるだけです。……体の中に、瘴気を注ぎこまれたまま。力づくでどかしたら、その人たちが、けがをします」
小隊長は、眉ひとつ動かさなかった。
「……公爵令嬢。後方の救護は、あなた方にお任せする。だが、前に出る判断は、騎士団がする」
「でも……!」
「──小隊長」
低い声が、焚き火の向こうからした。
アルだった。
「……発言を、お許しください。……私は、ここまでの村で、あの光を注がれた人たちを見てきました。家族の顔も、わからなくなった人たちを。……それを元に戻せたのは、この三日間で、ローゼンベルク嬢だけです」
アルは、まっすぐに小隊長を見ていた。
「剣でどかしても、あの人たちの中の瘴気は、消えません。……どかすのではなく、ひとりずつ、あの方のもとへ運ぶべきです」
……あの方。
焚き火のもうひとつの側で、カミラさんが、小さくうなずいた。
「……私も、同じ意見です。何の罪もない人を斬りたくありません」
小隊長は、しばらく、焚き火をにらんでいた。
それから、枝で、地面の村の絵に、もうひとつ線を加えた。
「……よかろう。外側から、少しずつ、ひとりずつ引きはがして、公爵令嬢のもとへ運ぶ。……ただし、儀式が始まって、結界に何かあれば、そのときは、騎士団のやり方でやる」
「……はい!」
私は、深く頭を下げた。
頭を上げるとき、焚き火の向こうのアルと、ほんの一瞬だけ、目が合った。
アルは、何か言いたそうな顔をしていた。
でも、私のほうが、先に、目をそらしてしまった。
◇
「──サラフィーナさん。こちらの水、もう沸きましたわ」
「ありがとう、イザベラ様」
床に敷いた毛布の上に、薬の小瓶を並べていく。三百人。ひとりずつ浄化していたら、とても新月までには間に合わない。でも、ひとりでも多く。
イザベラ様は、紫の瞳を細めて、丘の下の村を見下ろしていた。
「……祖父の気配が、しないのよね」
「え?」
「あの村には、祖父の気配が、どこにもないの。神官たちの気配は、いくつもある。瘴気を注がれた人たちの気配も。……でも、祖父だけが、いない」
「……どこかに、隠れてるってこと?」
「わからない。……でも、あの人が、自分がこしらえた舞台を、人任せにするはずがないわ」
イザベラ様の声が、少しだけ、硬かった。
◇
日が、西の森に沈みかけていた。
薬の支度を終えて、そっと野営地のはずれに出た。ひとりで、少しだけ、息をつきたかった。
丘のふちの、大きな岩にもたれて、北の空を見上げる。
あの細い線が、もう、すぐそこにあった。王都から見ていたときの、何倍も太く。
「──お嬢様」
後ろから、声がした。
……お嬢様。
振り返ると、アルが立っていた。
少し息が上がっていた。野営地じゅうを、探し回っていたみたいに。
「……アル。どうしたの、『サラフィーナ様』じゃないの?」
つい、そんなことを言っていた。
自分でも、いやな言い方だと思った。でも、口から出た言葉は、戻らない。
アルは、一瞬だけ、黙った。
それから、まっすぐに、私の前まで歩いてきた。
「……お嬢様。少し、お話ししたいことがあります」
灰色の瞳が、いつもより、ずっとまっすぐだった。
「この前の夜。……井戸のところで──」
──そのとき。
アルの言葉が、途中で切れた。
灰色の瞳が、私の肩の向こうを見て、すうっと、冷たくなった。
アルの手が、そっと、剣の柄にかかる。
「──お嬢様。動かないでください」
私は、ゆっくりと、振り返った。
◇
丘のふちの、ずっと先。
村を見下ろす、もうひとつの小さな丘の上に。
ひとりの老人が、立っていた。
夕焼けの中で、その人影は、ぼうっと、光っていた。
桃色に。
いや。
桃色だけじゃない。
桃色の光の、その下から。黒いもやが、老人の体じゅうから、ゆらゆらと、影のように、立ちのぼっている。
長い、桃色の髪。白い法衣。でも、その法衣は、裾から、ほんの少しずつ、灰色にくすんでいた。
こんなに遠いのに。
その人が、私を見ているのが、わかった。
「──やはり、来たかね」
声が、した。
こんなに遠いのに。耳のすぐそばで、ささやかれたみたいに。
「ローゼンベルク嬢」
……オルドヴィン。
身体が、動かなかった。
大聖堂で見たときより、ずっと、人じゃないものに近かった。
「ご覧。……美しいだろう」
老人の手が、ゆっくりと、村のほうをさした。
北を向いて、ひざまずく、何百人もの人たち。
「ただそこにいただけの、誰にも見つけてもらえなかった者たちが。……今、ひとつの祈りで、ひとつになっている。……君が王都でやっていることと、同じだよ。井戸のまわりの、あの輪と」
「……ちがう」
声が、ふるえた。
「ちがうよ。井戸の輪は、みんなが、自分で手を差し出してるの。……あの人たちは、ちがう。あなたが注いだもので、心を、むしばまれてるだけだよ」
「ふふ。……ふふふふ」
老人は、笑った。
穏やかな笑い声。なのに、その声は、何重にも重なって、ひどく歪んで聞こえた。
「あの女も、そう言ったよ。……五十年前にね」
桃色に光る目が、すうっと細くなった。
その奥で、黒いものが、うずを巻いていた。
「新月の夜、女神の奇跡を、ぜひその目で見ていきなさい。……君の席は、いちばん前に、用意しておくからね」
そう言うと、老人の姿が、ゆらりと揺れた。
夕焼けの中に、とけるように。
つぎの瞬間には、もう、丘の上には、誰もいなかった。
「──お嬢様!」
ふらりと後ろに倒れかけた私を、アルの腕が、支えていた。
知らないうちに、息を、ずっと止めていたらしい。
「……だいじょうぶ。……だいじょうぶだから」
そう言いながら、私の手は、アルの袖を、ずっとつかんだままだった。
アルは、何も言わなかった。
さっき言いかけたことも、もう、言わなかった。
ただ、その袖を、振りほどかないまま、北の空を、じっとにらんでいた。
新月まで、あと、一日。




