第三部 百年かかるぞ
「──お嬢。また、眉間にしわ寄ってるぞ」
村から先は、馬車の通れる道がない。だから、ここからは、ひとりずつ馬に乗っていくことになった。
馬の上で、ぼんやりしていたら、すぐ横から声がした。
マークだった。自分の馬を、私の馬に並べて、のんびりと手綱を握っている。
魔獣が北側の診療所を襲撃した時には、トマスさんの前に乗せてもらっていたのに。いつのまにか、ひとりで乗れるようになっていた。
北の村へ向かう、三日の道。
先頭には、王宮騎士団の第二小隊。そのいちばん前で、白と紺の背中がふたつ、並んで馬を進めている。
……それを見ないようにしていたら、いつの間にか、眉間に力が入っていたらしい。
「……寄ってないよ」
「寄ってる。三本。……あと、フードから、また髪が出てる」
マークは、馬上からひょいと手を伸ばして、私のフードの端を、ぎゅっと引っ張った。
「桜色は、目立つんだよ。このあたりの村の連中に、でかでかと『王都の聖女が来ました』って触れ回る気か」
「……ごめん」
「謝るようなことじゃねえよ」
マークは、懐から小さな袋を取り出して、中の干した果物を、ひとつつまんで、私の手のひらに放りこんだ。
「それ食っとけ。昨日から、ほとんど食ってねえだろ」
「……見てたの?」
「見てるのが仕事だからな」
……そういえば、そうだった。
干した果物は、ちょっとだけ酸っぱくて、それから、じんわりと甘かった。
「……おいしい」
「だろ。ばあちゃんの特製だ」
「マークのおばあさん、元気? 井戸の輪、まだ続けてるかな」
「続けてるどころか、北側の連中を仕切ってんよ。『あたしが一番弟子だ』って、えらそうによ」
「ふふっ……」
思わず、笑っていた。
笑ったら、肩に入っていた力が、少しだけ、ゆるんだ。
マークと話していると、いつもそうだ。
はじめて会ったときは、貴族のお嬢様なんか信用できるかって顔をしていたのに。今では、口は悪いけど、いちばんに、私のことを「聖女」として、まっすぐに見てくれる人になっていた。
「……マーク。ありがとうね」
「なにがだよ」
「……いろいろ」
「お礼は全部終わってからにしろって、何回言えばわかんだよ、お嬢は」
マークは、そっぽを向いて、鼻を鳴らした。
ふと、先頭のほうを見ると。
黒い髪の背中が、ちょうど、こちらを振り返ったところだった。
目が合う前に、すっと、前を向き直した。
……気のせい、かな。
◇
(野営の夜 ──アルフレッド)
「──マーク。少し、いいか」
焚き火から離れた、馬をつないだ木立の陰で。
馬の世話をしていたマークを、呼び止めた。
「……なんだよ。改まって」
「……公爵家のご令嬢との距離を、考えろ」
マークの、馬をなでる手が、止まった。
「……は?」
「馬上からフードに触れる。手のひらにものを渡す。……他の騎士たちも見ている。あの方に、噂が立つ」
自分の声が、思ったよりも、低かった。
マークは、しばらく、じっと私の顔を見ていた。
「……噂、ねえ」
緑の瞳が、すうっと細くなる。
「それ、騎士団の連中が気にしてんのか。……それとも、あんたが気にしてんのか」
「……………」
「……は? まさか、あんた。俺が、お嬢に気があるとでも思ってんのか?」
答えられずにいると、マークは、ぽかんと口を開けて。
「……ぶっ」
ふき出した。
「……何がおかしい」
「いや、だってよ。俺が? お嬢に? ……ねーよ。天地がひっくり返っても、ねーよ」
マークは、腹を抱えて、ひとしきり笑った。
それから、ふっと、笑いを引っこめた。
「……あいつのことは、聖女としちゃ、認めてる。ばあちゃんを助けてもらったし、北側の連中も、子どもも。……だから、あいつがぶっ倒れないように、見てる。それだけだ」
「…………」
「てかよ。あんたこそ、どうなんだよ」
マークの緑の瞳が、じろりと、私を見た。
「あの女と、いい感じなんだろ。紺色の」
「……は?」
「この間の夜。井戸のとこで。あの女が、あんたにあったかいもん持ってきて、ふたりで黙って空見てただろ。……見たぜ」
マークは、一度、言葉を切った。
「──お嬢と、一緒にな」
……。
「……一緒に、だと?」
「お嬢はな、あの夜、あんたに声かけに行ったんだよ。眠れねえって、ひとりで。……で、あの女が、あんたのそばに座ってんの見て。家の陰で、しばらく立ちどまって、それから、黙って引き返した」
……。
頭の中が、真っ白になった。
あの夜。私は、井戸の前で、北の空を見ていた。カミラが、何も言わずに、温かい器を置いていった。それを、何も考えずに、受け取った。
その、すぐ後ろに。
あの方が、いた。
「……カミラとは、そういうのではない」
「あんたがそう思ってても、向こうがどうかは知らねーよ。……それに、お嬢からどう見えてるかは、もっと知らねーだろ」
……。
言い返せなかった。
マークは、馬の首を、ぽんと叩いてから、こちらに向き直った。
「あのな。俺は、市民の生まれで、貴族のことなんてよくわかんねーけどよ」
緑の瞳が、まっすぐだった。
「好きなら、身分なんか関係ねーだろ」
「…………」
「言わなきゃ、伝わんねーし。しかもよ」
マークは、焚き火のほうを、あごでさした。
そこでは、桜色の髪が、納得いかない顔でトマス殿に何か言い返しながら、豆のスープをおかわりさせられていた。
「あいつ相手に、回りくどいことなんかしてたら、百年かかるぞ。……自分のことになると、あれだけ鈍いやつ、王都中さがしても、いねーよ」
「…………」
「それだけだ。俺は、もう寝る」
マークは、ひらひらと手を振って、焚き火のほうへ歩いていった。
そして、一度だけ、振り返らずに、言った。
「──あんた、今、あいつにどんな顔させてるか、ちゃんと見とけよ」
木立の陰に、私だけが残された。
焚き火の向こうで、桜色の髪が、トマス殿に、二杯目のスープを押しつけられて、笑っていた。
……笑っている。
でも、王宮の中庭で見た、あのきれいな、つくった笑顔だった。
こちらを、一度も見ない。
──家の陰で、しばらく立ちどまって、それから、黙って引き返した。
私は、自分の胸の内ポケットに、そっと手を当てた。
お嬢様からの手紙と、干し芋の包み。
……何を、しているんだ。私は。
◇
三日目の夕方。
北の森の、すぐ手前の丘の上から、その村が見えた。
小さな村だった。石積みの家が、十軒ほど。
でも、そのまわりに。
人がいた。
何百人も。村の広場から、あふれるように。畑のあぜ道にも、森の入り口にも。
みんな、北を向いて、ひざまずいていた。
北の空。すぐ頭の上に見える、あの細い線に向かって。
「……せいじゃさま。せいじゃさま。せいじゃさま……」
何百もの声が、同じ拍子で。同じ高さで。低く、低く、地鳴りのように。
鑑定の目を開くまでもなかった。
ひざまずいた人たちの背中から、桃色と黒とがもつれたもやが、糸のように立ちのぼり、そのすべてが、北の空の細い線へと、ゆらゆら、吸いよせられていく。
井戸の輪と、同じだった。
みんなの光が、結界へと昇っていく。
ただ、ひとつだけ、ちがう。
結界に届いた光は、細い線を、縫い合わせるのではなく。
内側から、じわじわと、押し広げていた。
「……新月まで、あと、二日だ」
隣で、マークが、低くつぶやいた。




