第三部 井戸のそばの夜
集会所の炉の火が、ぱちぱちとはぜていた。
大鍋の中では、トマスさんが作った、豆と根菜のスープが、ぐつぐつと煮えている。村の人たちが、お礼にと分けてくれた食べ物と、私たちが王都から持ってきた干し肉。
「──どうぞ! 警護隊仕込み、トマス特製です!!」
「……ただの豆のスープだよな」
「豆のスープです!!」
王宮騎士団の騎士たちが、くすくす笑いながら、器を受け取っていく。
第二小隊は、今夜、この村に泊まることになった。羊の魔獣が出たばかりなのだから、当然だ。
……当然だけど。
私は、器を両手で包んだまま、炉の向こう側を、そっと見た。
アルが、壁に背をつけて、座っていた。
その隣に、当たり前のように、カミラさん。
「──ちょっと。それ、私のパンでしょう」
「お前が、さっきいらないと言っただろう」
「いらないとは言ってないわよ。『あとで』って言ったの」
「……半分でいいか」
「いいわよ。あんた、だんだんわかってきたじゃない」
……半分。
私は、器の中のスープを、じっと見つめた。
豆が、ひとつ、ぷかりと浮いていた。
「……サラフィーナさん。食べないと、冷めますわよ」
隣で、イザベラ様が、小さな声で言った。
「……うん」
「……さっさと言えばいいのに。あなたも、あの人も」
「……い、言うって、だから、だれに、なにを……」
「…………はぁ」
イザベラ様は、それ以上何も言わずに、深い深いため息をついた。
それから、すっと自分のスープを飲んで、ちらりと、炉の向こうではなく、王都のある南のほうの暗い窓を見た。
……イザベラ様も、まだ、疲れてるのかな。
◇
「──サラフィーナ様。少し、よろしいですか」
食事のあと。井戸の水で器を洗っていると、後ろから声をかけられた。
紺色の短い髪。カミラさんだった。
カミラさんは、自分の器を手に、私の少し横に、ひざをついた。いっしょに器を洗うつもりらしい。
「……はい」
「先ほどの羊のこと。……正直、驚きました。王宮でお目にかかったときは、守られていらっしゃるだけの方だと、思っておりましたので」
まっすぐな言葉だった。失礼なはずなのに、不思議と、いやな感じはしなかった。
「……よく、言われます」
「でしょうね」
カミラさんは、少しだけ笑った。それから、器を洗う手を止めた。
「……アルフレッドのことです」
井戸の水面に、松明の火が、ゆらゆらと映っていた。
「彼は、もともと口数の少ない男ですが。……村をまわって、あの光を注がれた人たちを見るうちに、ますます、何か考えこむことが増えました。家族の顔がわからなくなった母親の前で、ずっと、立ちつくしていたこともあります。夜も、ほとんど眠っていないようです」
……。
「何も言いません。弱音も、ひとつも吐かない。……でも、私は、それでいいと思っています」
カミラさんは、井戸の水面を見つめたまま、言った。
「何も言わなくても、隣で、その背中を支える。……それが、組んでいる者の役目ですから」
……背中を、支える。
「それに」
カミラさんが、ようやく、私のほうを見た。深い青の瞳が、まっすぐだった。
「あれほどの腕を、ひとつのお屋敷の護衛のまま終わらせるのは、もったいない。……サラフィーナ様も、そう思われませんか」
「……え」
「彼なら、もっと上へ行けます。王宮騎士団の、そのずっと上まで」
カミラさんは、器を持って、すっと立ち上がった。
「……失礼いたしました。おやすみなさいませ、サラフィーナ様」
紺色の髪が、夜の向こうへ、すたすたと遠ざかっていく。
私は、洗いかけの器を持ったまま、動けなかった。
……守られてばかりじゃ、だめだと思っていた。今度は、私がアルを支えたいと思っていた。
でも。
私は、アルの背中を、支えられているんだろうか。
──待っていてください。
──待ってる。ずっと、待ってるから。
あの夜、そう約束した。うれしかった。今も、うれしい。
でも、それは、アルを、公爵家に。……私のところに。ずっと、縛りつけておくことに、ならないだろうか。
彼なら、もっと上へ行けます。
井戸の水が、冷たかった。
◇
夜が更けて、村が静まりかえったころ。
私は、眠れなくて、そっと集会所を抜け出した。
村の真ん中の井戸。桃色の布をかけた、粗末な祭壇。
その前に、ひとつの影が、剣を抱いて座っていた。
……アル。
声をかけようとして、足が止まった。
井戸の向こうから、もうひとつの影が、湯気の立つ器を持って、近づいてきた。
紺色の、短い髪。
カミラさんは、何も言わずに、その器をアルの横に置いた。アルも、何も言わずに、それを取った。
カミラさんは、アルの隣ではなく、少しだけ離れた井戸のふちに、腰を下ろした。そして、ふたりとも、黙ったまま、北の空を見上げていた。
何も言わなくても、隣で、その背中を支える。
……私は、家の陰で、しばらく、その背中をふたつ、見ていた。
それから、そっと、来た道を引き返した。
今、私が行ったら。きっと、アルは、立ち上がって、「サラフィーナ様。夜風はお体にさわります」と言う。そして、私を見送ったあと、また、ひとりで、眠らないまま、考えこむ。
……それなら。
「──行かねえのか」
家の角を曲がったところで、闇の中から、小さな声がした。
行商人の格好のマークが、壁にもたれて立っていた。
「……マーク。いつから」
「今、戻ったとこだ。……で、行かねえのか」
「……うん。今夜は、いい」
「……そうかよ」
マークは、それ以上、何も言わなかった。
緑の瞳が、いつになく、硬かった。
「……聖者の行き先が、わかった」
「……どこ?」
「ここから、北へ三日。国境沿いの、いちばん奥の村だ。……北の森の、結界の、ほとんど真下にある村だよ」
マークは、一度、唇をかんだ。
「そこに、あの爺さんが治して回った村々の連中が、少しずつ集められてる。……『次の新月の夜、女神の奇跡を見せてやる』って、そう言ってな」
……結界の、真下。
桃色の光を注がれた、たくさんの人たち。
ふと、井戸のまわりの、あの輪を思い出した。
手をつないで、守りたいものを思い浮かべる。たくさんの小さな光が、結界へと昇っていく。
もし。
それと同じことを。
桃色と黒の光を注がれた人たちで、やったら。
「……結界を、内側から、壊すつもりだ」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。




