第三部 来なかった人たち
小さな胸に、そっと、手のひらを当てた。
こんなにもつれているものは、触れないと、とけない。
──おばあちゃん。ごめんね。
──その光を、この子から、ほどかせて。
手のひらから、私の光が、ゆっくりと、小さな胸の奥へと、しみこんでいく。
もつれた糸を、一本ずつ。
桃色の光に、小さな声で、話しかけるように。そっちじゃないよ。この子は、むしばむものじゃないよ。守るものだよ。
桃色の光が、ふるりと、私の光によりそった。
とけていく。
黒いもやが、だんだん、だんだん、うすくなっていく。
「……せいじゃさま。せいじゃさ……」
男の子のつぶやきが、ふっと、途切れた。
まばたきを、ひとつ。
どこも見ていなかった目に、ゆっくりと、光が戻ってくる。
その目が、私を見た。
それから、私の肩の向こうを、見た。
「……おかあちゃん」
後ろで、だれかが、たどたどしく駆けてくる足音がした。
やせた、若い女の人だった。男の子を、そのまま、かけこむように抱きしめた。
「……テオ。テオ、テオ……! おかあちゃんが、わかるの、わかるのね……!」
「……おなか、すいた」
女の人は、男の子を抱いたまま、声を上げて泣いた。
私は、そっと立ち上がった。ひざが、少しだけふらついた。
……重い。井戸を十浄化するより、ずっと重い。
「──サラフィーナさん」
イザベラ様が、私の腕を支えてくれた。紫の瞳が、村の奥をじっと見つめている。
「……この村に、まだ、同じ気配がいくつもあるわ。ひとつ、ふたつじゃない」
◇
村の集会所を借りて、小さな診療所を開いた。
いや、開こうとした。
「──帰ってくれ」
集会所の入り口に、白いひげの老人が、杖をついて立ちふさがっていた。村の長だという。
その後ろには、何人もの村人たち。みんな、よそ者を見る目をしていた。
「聖者様は、この村の病人を、みんな治してくださった。あんたら王都の者が、何をしに来た」
「……治ってないんです。体の中に、瘴気が残っていて、それが、だんだん……」
「瘴気?」
老人の口元が、ゆがんだ。
「瘴気なら、この土地には、何十年も前からある。北の森のすぐ脇だ。井戸の水は、年に何度も濁る。畑の作物は、三年に一度、全部枯れる。子どもは、皆、七つまでに一度は、大熱を出す」
……。
「そのあいだ、王都から、だれかが来たかね。神殿の治癒を受けるには、王都まで、十日歩いて、一年分の麦を寄進せにゃならん。それができない者は、ただ、死ぬのを待つだけだった」
老人の声は、静かだった。
怒鳴っていないから、余計に、胸に刺さった。
「聖者様だけが、来てくださったんだよ。……金も、麦も、何も取らずに。『女神は、おまえたちを見捨てない』と、そう言ってな」
……あ。
だから、だ。
だから、あの人は、ここを選んだんだ。
王都からいちばん遠くて。瘴気にいちばん近くて。ずっと、誰にも、見つけてもらえなかった、この村を。
「──おい。無礼だぞ。この方は、桜色の聖女様だ」
後ろで、トマスさんが、いつもよりずっと低い声で一歩踏み出した。
「……トマスさん。いいの」
私は、トマスさんの腕に、そっと手を置いた。
それから、老人の前に、まっすぐに立った。
「……そうですね」
「……ん?」
「私たちは、来ませんでした。王都の診療所も、井戸の輪も。ここまで、届いていませんでした」
私は、深く、頭を下げた。
「……遅くなって、ごめんなさい」
集会所の前が、しんとした。
老人は、しばらく、頭を下げたままの私を見下ろしていた。
「……公爵家の、お嬢さんが、わしなんぞに、頭を下げるもんじゃない」
「でも、ごめんなさい。……だから、今度は、ちゃんと来ました」
頭を上げて、老人の目を見た。
「さっき、テオくんは、お母さんのことがわからなくなっていました。……今は、わかります。おなかがすいたって、言ってました」
老人の口元が、かすかに震えた。
その後ろで、村人たちが、ざわざわと、顔を見合わせている。
「……うちの人も、このごろ、ぶつぶつと……」
「うちの娘も、何も食べなくなって……」
小さな声が、ひとつ、またひとつと、重なっていく。
老人は、長いあいだ、黙っていた。
それから、杖をついて、ゆっくりと、集会所の入り口から身をどけた。
「……わしの孫も、だ。……先に、孫を見てやってくれんか」
◇
日が暮れるまでに、十一人を浄化した。
ひとりひとり、体の奥のもつれた糸を、ひとつずつほどいていく。いちばん濃いものは、私が。まだ薄いものは、イザベラ様が。
イザベラ様の光は、井戸ひとつに一晩かかるほど小さい。でも、薄いもやなら、ちゃんと、ゆっくりと、とかしていけた。
トマスさんは、井戸の水を何樽も沸かして、村の子どもたちに、手の洗い方を教えていた。ものすごい大声で。子どもたちは、はじめは怖がっていたけれど、そのうち、きゃあきゃあと笑いながら、まねをしていた。
マークは、行商人の格好で、もう、どこかへ消えていた。
「……ふぅ。ちょっと、休ませて」
十一人目の浄化を終えて、私は、集会所の壁にもたれて、ずるずると座りこんだ。
外は、もう、真っ暗だった。
──そのとき。
「──きゃああああっ!!」
村のはずれのほうから、悲鳴が聞こえた。
◇
村のはずれの、羊小屋。
松明を掲げて駆けつけると、木の柵が、内側からめちゃくちゃに破られていた。
そこから、何かが、のそりと出てきた。
羊、だったもの。
体は、元の倍ほどにふくれ上がっていた。もこもこの白い毛は、片っ端から黒くにごって、その下から、黒いもやが、もうもうと、あふれ出している。口からは、羊にはあるはずのない、長い牙。
一頭じゃなかった。
二頭。三頭。……五頭。
赤い目が、松明の火を、いっせいに見た。
「──桜色様! 自分の後ろに!!」
トマスさんが、剣を抜いて、私の前に立ちはだかった。
でも、トマスさんは、ひとりだけだった。警護隊の若い騎士たちは、村の反対側の見張りについている。
魔獣になった羊の一頭が、地面を蹴った。
トマスさんの剣が、その角を受け止める。ずしん、と、重い音。トマスさんの足が、地面をえぐって、後ろへずるりと下がる。
その横から、もう一頭。
──間に合わない。
そう思った、そのとき。
闇の向こうから、ひとつの影が、風のように飛びこんできた。
白と紺の制服。
黒い髪。
その剣が、私に飛びかかろうとしていた羊の足を、一閃で払った。
羊が、どうと倒れる。
その影は、振り返らずに、私の一歩前に立った。
十二年、ずっと、そこにあった背中だった。
「──お嬢様。私の後ろから、手を伸ばしてください」
……あ。
お嬢様。
私は、何も考えずに、その背中に、ぴたりとついていた。
倒れた羊が、起き上がろうともがく。その角を、アルの剣が地面に押しつける。
「──今です!」
アルの脇の下から、手を伸ばす。
指先が、黒くにごった毛にふれる。
──もう、だいじょうぶだよ。
光が、弾けた。
黒いもやが、はがれていく。ふくれ上がっていた体が、しゅるしゅると、しぼんでいく。牙が、ぽろりと抜け落ちる。
そこにいたのは、しょんぼりとうずくまる、ただの、小さな羊だった。
……よかった。
北の森の狼たちは、浄化しても、もう元には戻らなかった。生まれたときから、ずっと森の瘴気の中で生きてきて、体の芯まで、染まりきっていたから。
でも、この羊たちは、ちがう。ほんの何日か前まで、この村で草を食んでいた、ふつうの羊だ。
染まりきる前なら、まだ、間に合う。
テオくんと、同じように。
「──お見事です、サラフィーナ様」
横で、もう一頭の羊を剣の平で押さえこんでいた紺色の髪が、ちらりとこちらを見た。
「……残りも、お願いできますか。どなたかの羊でしょうから。できれば、斬りたくありません」
カミラさんだった。
◇
五頭の羊が、ぜんぶ、ただの羊に戻ったころ。
羊小屋の前には、王宮騎士団の第二小隊の騎士たちが、ずらりと並んでいた。どうやら、隣の村から、ちょうどこの村へ向かう途中だったらしい。
「……サラフィーナ様」
アルが、私の前で、完璧な礼をした。
……また、サラフィーナ様。
さっきは、「お嬢様」って言ったのに。
「……なぜ、こちらにいらっしゃるのですか」
無表情。丁寧な声。王宮の中庭のときと、同じ。
でも。
松明の火に照らされたその顔は、王宮で見たときより、少しだけ、やつれていた。あごの線が、少しだけ、とがっていた。
……ごはんは、食べております。
うそつき。
私は、マントの内側の小さな袋から、布の包みを取り出した。
そして、アルの胸に、ぐいっと押しつけた。
「──ごはん、ちゃんと食べてるか、確かめに来たの」
「……は?」
「公爵家の厨房の、芋を干したやつ。ライザから。……アル、やせたよ」
アルが、布の包みを、じっと見下ろした。
しばらく、何も言わなかった。
それから。
「……ごはんの見回りに、こんな遠くまで、お越しいただくとは。……公爵家のご令嬢というのは、ずいぶんと、お暇なのですね」
……嫌味だった。
いつもの。王宮のときより、ずっと、いつもの。
アルの手が、布の包みを、そっと、ものすごく丁寧に、胸の内ポケットにしまった。
そのポケットは、なぜか、もう、だいぶふくらんでいた。
少し離れたところで、カミラさんが、それを、じっと見ていた。




