第三部 桃色の聖者様
【任務により、しばらく、お手紙をお送りできなくなります。】
【ごはんは、食べております。】
……二行。
前の手紙より、一行、減っていた。
私は、その便箋を、何度も何度も読み返した。二行しかないのに。それでも、どこかに、もう一行くらい隠れていないかと思って。
「……お嬢様。便箋、裏返しても、何も書いてないと思いますよ」
「……わかってるよ」
ライザに言われながら、私は、便箋を青空にすかしていた。
任務。
王宮騎士団の、初めての任務。
──『桃色の聖者様』ってな。
マークの声が、よみがえる。
……たぶん、偶然じゃない。
◇
「──村の数は、今わかってるだけで七つだ」
魔術師団の塔の、いちばん上の部屋。
大きな地図の上に、マークが、小さな石をひとつずつ置いていく。北の国境沿い。北の森の、すぐ外側の村々。
地図を囲んでいるのは、石を置いているマークと、ギデオン様、お兄様、ユリウス様、イザベラ様。それから、私。
……イザベラ様は、お兄様からいちばん遠い場所に立っていた。お兄様は、何度かそちらを見て、そのたびに、眼鏡を押し上げていた。
「老人は、ひとつの村に三日といない。病人を治して、『女神は、おまえたちを見捨てない』って言って、次の村へ行く。……そして、そのあとを、白い衣の連中がついて歩いてる」
「白い衣?」
「神官だよ。……あの夜、大聖堂から逃げた、オルドヴィンの取り巻きどもだ」
マークが、吐き捨てるように言った。
ユリウス様が、小さく目を伏せた。
「……そうですか。やはり、祖父のもとに。……一か月、彼らの行方を追っていましたが、北へ向かったというところで、足取りが途切れていたのです」
「……でも、病気を治してるんだよね」
私は、地図の上の小さな石を、じっと見つめた。
「あの人が、なんのために。どうして、今さら……」
「──治ってないんだよ」
マークが、低い声で言った。
「……えっ?」
「治ったように見えるんだ。はじめのうちはな。熱も下がるし、傷もふさがる。……でも、十日もすると、様子がおかしくなる。ぶつぶつ独り言を言い始めたり、飯を食わなくなったり。……家族の顔が、わからなくなったやつもいるって話だ」
塔の部屋が、しんとした。
「それにな。聖者が通ったあとの村じゃ、家畜が、だんだんおかしくなってる。ただの羊が牙をむいて、羊飼いを襲ったってのもあった」
「……魔獣」
ギデオン様が、かすれた声でつぶやいた。
「……そういうことかい」
ギデオン様は、もじゃもじゃの白い髪を、ぐしゃりとつかんだ。いつもののんびりしたおじいさんの顔ではなかった。
「あの男が大聖堂で取りこんだのは、あの人の光だけじゃない。五十年、魔石の底にたまっていた、濁りもいっしょに。……あのとき、桃色に黒が混ざっていただろう」
……覚えている。
砕けたステンドグラスの向こうで、宙に浮かんだ人影。桃色と黒が、ぐちゃぐちゃに混ざり合った光。
「あの男が人に注ぎこんでいるのは、その光だ。桃色の光が、傷や熱をふさいでくれる。……でも、いっしょに注ぎこまれた黒いものが、体の奥に残る。それが、じわじわと、心をむしばんでいくんだよ」
「……瘴気を、体の中に、直接……」
「そうだね。井戸の水を何年も飲むより、ずっと速い。……人は、それだけの瘴気に当てられると、体より先に、心が壊れる。たいていはね」
たいていは。
ギデオン様は、そこで、ゆっくりと、北の空を見上げた。
「……うん。たいていは、だ。あれだけの瘴気を自分の中に取りこんで、心が壊れずに、平気な顔で、村から村へ歩いている男がいる。……ふつうの人間なら、ありえないことだよ」
背中が、すうっと冷たくなった。
「……あの男は、壊れずに、飲みこんでいるんだ」
◇
「──行きます」
私は、地図から顔を上げた。
「治ったように見えて、体の中に瘴気が残ってる人たちがいるんでしょう。……それ、私には見える。それに、浄化できる」
瘴気の黒いもやは、私にしか見えない。
心が壊れてしまう前に。家族の顔が、わからなくなってしまう前に。
「……サラ」
お兄様が、眼鏡を押し上げた。
止められる、と思った。
でも、お兄様は、もう手帳を開いていた。
「……父上と母上には、私から話す。陛下には、殿下を通して、聖女としての派遣をお願いする。──勝手に行かれて、勝手につまずかれるより、ずっといい」
「……お兄様」
「止めても無駄なことは、十八年前から知っている」
……どこかで、同じようなことを言われた気がする。
「──私も、行きますわ」
イザベラ様が、地図のいちばん端から、一歩前に出た。
「瘴気なら、私にも感じ取れる。……それに、あの村の人たちをそうさせたのは、私の祖父ですもの」
「……イザベラ」
ユリウス様が、妹の名前を呼んだ。それから、小さく首を振った。
「……私は、王都に残ります。神殿を空けるわけにはいかない。……祖父についていった神官たちの名前と、顔と、癖を、全部書き出しておきます。誰を説得すれば、戻ってくるかも」
そう言って、ユリウス様は、私のほうを見た。
「……サラフィーナ嬢。妹を、お願いします」
「……はい」
「──自分も行きますっ!!」
塔の階段の下から、地鳴りのような声がした。
……トマスさんだ。百二十段のらせん階段の下に、ずっと待っていたはずなのに。
「……どうやって聞こえたんだ、あの兄貴」
マークが、顔を両手で覆った。
◇
「……お嬢様。今度は、私、留守番ですね」
その夜。旅の支度をしながら、ライザが、少しだけさびしそうに言った。
「うん。診療所のこと、ライザにしか頼めないもん。イザベラ様もいなくなっちゃうし」
「……はい。任せてください!」
ライザは、胸をどんと叩いた。
それから、私のにもつのいちばん上に、小さな布の包みを、そっと置いた。
「……これ、もし、向こうで、お会いになったら。アルさんに」
「えっ。これ、なに?」
「公爵家の厨房の、芋の干したやつです。……王宮騎士団のごはんより、たぶん、こっちのほうが好きだと思うので」
ライザは、にっこり笑った。
「『ごはんは、食べております』って、書いてあったんでしょう? だったら、ちゃんと食べてるかどうか、お嬢様が、その目で確かめてきてくださいね」
……。
布の包みを、両手で、そっと抱えた。
少しだけ、あたたかかった。
「……ライザ、ありがとう」
「いえいえ! ……私も、留守のあいだに、ちょっとだけ、がんばってみますので」
「えっ、なにを?」
「な、なんでもないです! お嬢様は、早く寝てください!」
ライザは、エプロンの端をくしゃくしゃに握りしめて、ばたばたと部屋を出ていった。
◇
王都を出て、五日。
北の国境沿いの、いちばん南にある村に、私たちの馬車は着いた。
小さな村だった。石積みの家が、二十軒ほど。その真ん中に、村じゅうの人が使う、古い井戸がひとつ。
その井戸の前に、小さな祭壇が、つくられていた。
木の板を組んだだけの、粗末な祭壇。その上に、桃色に染めた布が、かけられている。前には、野の花と、わずかな麦の穂が、お供えされていた。
そして、その祭壇の前に、ひざまずいている、小さな男の子がいた。
五つか、六つくらい。
なにかを、ぶつぶつと、つぶやいている。
「……せいじゃさま。せいじゃさま。せいじゃさま……」
同じ言葉を。何度も。何度も。拍子も、声の高さも、ひとつも変えずに。
私は、馬車を飛び降りて、その子のそばに駆け寄った。
しゃがみこんで、そっと顔をのぞきこむ。
その子は、私のほうを見なかった。
目は開いているのに、どこも見ていなかった。
私は、鑑定の目を、そっと開いた。
──。
小さな胸の奥。
そこで、桃色の光と、黒いもやが、ひどくもつれた糸のように、ぐちゃぐちゃに、からまり合っていた。
桃色の光には、五つの、丸い花びらの癖があった。
……おばあちゃんの光だった。
こんな小さな子の心を、むしばむために。




