第三部 閑話 三行の手紙 (アルフレッド)
便箋が、もう十一枚、丸められていた。
王宮騎士団の兵舎。狭い二人部屋の、狭い机。燭台の灯りは、もう半分ほどになっている。
私は、十二枚目の便箋に、ペンを置いた。
【お嬢様へ。】
そこまでは、すぐに書ける。
問題は、その先だった。
一枚目には、王宮騎士団の日々のことを書いた。稽古のこと。兵舎の食事のこと。書きながら、いつの間にか、「公爵家の厨房の芋のスープが、なつかしく……」と書いていた。丸めた。
二枚目には、お嬢様のお体のことを書いた。一か月も眠っていらしたのだから、無理をなさらず、夜は早く……と書きながら、いつの間にか、便箋のいちばん下まで埋まっていた。丸めた。
三枚目から十一枚目までも、だいたい同じだった。
……書きはじめると、こぼれるのだ。
丁寧な言葉で、どれだけ包んでも。便箋の上では、声の調子も、無表情も、何も使えない。字は、字のまま、ぜんぶ届いてしまう。
だから、私は、十二枚目に、三行だけ書いた。
【本日も、変わりなく勤めております。】
【トマス殿の声で、お屋敷の窓硝子が割れておりませんか。】
【無茶は、ほどほどになさいませ。……三歩手前で申し上げる者が、おりませんので。】
……最後の一行は、書くべきではなかったかもしれない。
だが、十三枚目を書き直す気力は、もうなかった。
◇
公爵家から届いた返事は、五枚より多かった。
診療所のこと。井戸のこと。イザベラ嬢が子どもたちに「先生」と呼ばれていること。ギデオン殿のひげのこと。トマス殿の声で、窓ガラスが本当に一枚ひびが入ったこと。
トマス殿。トマス殿。トマス殿。
……数えたら、七回出てきた。
いや、数えるつもりはなかった。たまたま、目についただけだ。
そして、いちばん最後の一行。
【アルは、元気? ちゃんと、ごはん、食べてる?】
……。
何度読んだか、わからない。
「──おい。お前、今、笑ったか?」
同室の騎士が、寝台から身を乗り出して、幽霊でも見たような顔をしていた。
「……笑っていない」
「笑っただろ! 今! 第二小隊の無口の新入りが! うわ、明日、雪が降るぞ……!」
……私は、便箋をたたんで、胸の内ポケットにしまった。
もう、五枚も入っている。そこに。
◇
王宮騎士団に来て、ひとつ、気づいたことがある。
「──同期に、ですます言うのやめてくれる? 気持ち悪いから」
初めて組まされた日、カミラに、そう言われた。
紺色の短い髪。私とほとんど変わらない背丈。剣の腕は、第二小隊でいちばんだと聞いていた。そのとおりだった。
「……わかった」
そう答えて、自分でも少し、驚いた。
丁寧な言葉をやめるのは、拍子抜けするほど、簡単だった。
同室の騎士にも。小隊長以外の先輩たちにも。いつの間にか、私は、ふつうに話していた。
十二年、あんなに手放せなかったものを。
……それで、ようやくわかった。
丁寧な言葉は、誰にでも必要な鎧ではなかったのだ。
隠すものがなければ、鎧など、いらない。
私が、あの鎧を着こむのは。
この世でただひとり、あの方の前でだけなのだ。
◇
あの日、中庭で。
回廊の柱のあいだに、桜色の髪が見えたとき。
剣を打ち合っている、まっ最中だった。その一瞬、目が奪われて、カミラの一撃を、間一髪でしかよけられなかった。
──やっと一本、あんたの顔色を変えてやったわ。
カミラは、得意げに笑っていた。
……ちがう。顔色を変えたのは、あいつの剣ではない。
稽古が終わるまで、気づかないふりをした。振り向いたのは、それからだ。
二十日と少しぶりに見るお嬢様は、よそ行きの上着を着ていた。王宮に来るために、たぶん、何度も着替えたのだろう。右の袖口のリボンが、ちょっとだけ、斜めになっていた。
……ほどいて、結び直したかった。
それができる場所に、もう、私はいない。
そこへ、カミラが「いつも、お嬢様のお話は、伺っております」と言ったとき、考えるより先に、口が動いていた。
──おい。余計なことを言うな。
ほんとうのことだった。だからこそ、言われたくなかった。
兵舎の食堂で、稽古のあとで、気づけば、あの方の話ばかりしていたことを。……よりにもよって、あの方の前で。
……そして。
振り返って、あの方の顔を見たとき。
もう、鎧は、ちゃんと着こんでいた。
──失礼いたしました、サラフィーナ様。
王宮騎士団の制服を着た騎士が、公爵令嬢を呼ぶなら、そう呼ぶべきだ。小隊長にも、初日にそう教えられた。
正しい呼び方だった。
口にした瞬間、その正しさが、私の喉の奥に、小さな棘のように引っかかった。
あの方は、笑っていた。
十二年で、一度も見たことのない、きれいな、つくった笑顔で。
……ああ。
私は今、この方に、こんな顔をさせているのか。
だから、背を向けて、歩き出して、それでも、足が止まった。
──お帰りの際は、回廊の三段目の段差に、お気をつけください。お嬢様は、ああいうところで、よくつまずかれますので。
「お嬢様」。
わざとだった。
ひとつだけ。十二年の分を、たったひとつだけ。
振り返らなかったのは、振り返ったら、もう歩けなくなるとわかっていたからだ。
◇
「──あんたさあ」
中庭を横切っているとき、隣で、カミラが、前を向いたまま言った。
「あの子の前でだけ、しゃべり方、変わるのね」
「……護衛だったからな」
「ふうん」
カミラは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、その深い青の瞳が、一瞬だけ、私の横顔に留まって、それから、すっと前に戻った。
……このところ、よくあるのだ。
稽古のあと。食堂の列で。兵舎の廊下で。ふと気づくと、あの青い瞳が、こちらに留まっている。そして、目が合う前に、すっとそらされる。
その目のそらし方を、私は、よく知っている気がした。
十二年、ずっと、あの方の前で、自分がしてきたことだから。
……気のせいだ。たぶん。
そうでなければ、困る。
私は、あいつに、待たせている人がいるとは、一度も言ったことがない。
◇
帰りの馬車のことを、よく思い出す。
王宮の謁見の間から戻ったあの方が、動き出した馬車の中で、いちばんに、私に言った。
──殿下との婚約、解消してきたよ。
その瞬間、私の中で、何かが、音もなく崩れた。
十二年、ずっと、そこにあった壁だった。
王子の婚約者。それがあるかぎり、私は、何も望まなくてよかった。望んではいけない理由が、これ以上ないほど、はっきりとそこにあった。
その壁が、なくなった。
……だから、窓の外ばかり、見ていた。
あの方の顔を見たら、その場で、何もかも言ってしまいそうだったから。
壁は、まだ、もうひとつ残っている。
公爵令嬢と、一介の騎士の息子。
それを越えるために、私は、ここへ来たのだ。
──待っていてください。
あの夜、生まれて初めて、何の鎧もなしに口にした、ただのお願い。
あの方は、「待ってる」と答えてくださった。
……それなのに。
あの方に、あんな笑顔をつくらせているのは、私だ。
◇
「──第二小隊、集合!」
翌朝。稽古場に、小隊長の声が響いた。
「北の国境沿いの村々で、妙な噂が広がっている。……桃色の光で病を治す、老いた聖者だそうだ」
……桃色の光。
剣を握る手に、自然と力がこもった。
「陛下の命により、第二小隊を派遣する。噂の真偽を確かめ、必要とあれば、その者を拘束せよ。……出発は、三日後だ」
「──はっ!」
小隊全員の声がそろう。
隣で、カミラが、にっと口の端を上げた。
「……初任務ね。よろしく、相棒」
「……ああ」
答えながら、私は、北の空を見上げていた。
あの細い線の、ずっと向こう。
……桃色の光を、あの方の手から奪っていった男がいる。
その夜、私は、新しい便箋を、一枚だけ広げた。
今度は、一枚目で、書き終えた。
【お嬢様へ。 任務により、しばらく、お手紙をお送りできなくなります。 ごはんは、食べております。 ──アルフレッド】
……二行。
いちばん書きたかったことは、やはり、書けなかった。




