第三部 井戸の周りの輪
「……ほら。見えるかい」
魔術師団の塔の、いちばん上の部屋。
ギデオン様が、窓辺に据えた大きな真鍮の筒を、そっとこちらに向けた。中に、何枚ものレンズが重ねてある。遠くを見るための道具だそうだ。
のぞきこむ。
北の空。あの、細い細い、一本の線。
その線の、ほんの一点から。
糸のように細い、黒いもやが、ゆらゆらと、こちら側へ、にじみ出していた。
「……瘴気」
「そうだね。ほんの少しだ。今日明日どうこうというものじゃないよ」
ギデオン様は、もじゃもじゃの白い髪をかきながら、うーんとうなった。
「ただねぇ。あの夜、みんなの手で張り直した結界は、とても丈夫だ。でも、張ったあと、誰もそこに力を足していない。あんたが眠っていた一か月も、ずっとね」
「……力を、足す」
「こういうものは、井戸と一緒だよ。……瘴気というのはね、土にしみこむんだ。土にしみこんだものは、水にも、空気にも、じわじわとたまっていく。それを長く口にしつづけると、人は少しずつ弱っていって、いずれは衰弱して死んでしまう。獣なら、瘴気を帯びて、魔獣になる」
ギデオン様は、窓の外の、王都の屋根を見下ろした。
「井戸は、そのたまり場なんだよ。いちばん、人の口に入りやすいところだからね。いっぺん浄化しても、放っておけば、また濁る。……あの人も、そうだった。結界を張る前は、王都の井戸をひとつずつ回って、毎日のように浄化していたよ」
あの人。おばあちゃんのことだ。
ギデオン様は、おばあちゃんのことを、いつも「あの人」と呼ぶ。五十年たっても、見習いの少年が、憧れの大人の背中を呼ぶような声で。
「……ミコトさんの日記のやり方を、一度きりじゃなくて、続けられないかな」
私は、つぶやいていた。
「あの夜みたいに、北の森にみんなで行くんじゃなくて。もっと小さくていいから。いつもの暮らしの中で、みんなが、少しずつ、手を重ねて『守りたい』って思える場所……」
いつもの暮らしの中。
みんなが、当たり前のように集まる場所。
「──井戸だ」
ギデオン様と、声がそろった。
◇
井戸は、どの町にもある。
毎朝、水を汲みに、みんなが集まる。子どもも、おばあさんも、若いおかみさんも。水を汲みながら、ちょっとだけ立ち話をしていく。
それに。
デビューのあと、私がいちばんはじめに浄化して回ったのも、井戸だった。
「──で、井戸のまわりで、手をつなぐって?」
北側の、いちばん大きな井戸の前で。
マークが、腕を組んで、眉をひそめた。
「うん。週に一度でいいから。朝、水を汲みに来たときに、そこにいる人たちで。ほんの少しのあいだだけ、手をつないで、守りたいもののことを思い浮かべるの」
「……それだけで、結界が丈夫になるのかよ」
「たぶん。……ううん。それを、今から確かめるの」
マークは、しばらく黙って私を見ていた。
それから、はあっと、大きなため息をついた。
「……で、いちばんはじめに、うちのばあちゃんを引っ張り出そうってわけだろ」
「……ばれた?」
「ばればれだよ」
と、マークの後ろから。
「──あたしなら、もう来てるよ」
曲がった腰に桶をぶら下げて、マークのおばあさんが、にかっと笑って立っていた。
「ばあちゃん!? まだ寝てろって言っただろ!」
「この光のお嬢ちゃんが、なにかやるっていうのに、寝てられるもんかい」
おばあさんの後ろには、もう、何人かの年寄りたちが並んでいた。その後ろには、診療所で手の洗い方を覚えた子どもたち。そのまた後ろには、水桶を抱えたおかみさんたち。
「……ばあちゃんが、書き置きしてまわったんだな」
「書き置きなんてしやしないよ。ちょっと、口で言ってまわっただけさ」
マークが、顔を両手で覆った。
……北側の噂の速さは、あのころから、ちっとも変わらない。
◇
井戸のまわりに、人の輪ができた。
二十人くらい。おばあさんと、子どもと、おかみさんと、警護隊の若い騎士が何人か。それから、もちろん、トマスさん。
「じゃあ、手をつないでください。……それで、目を閉じて。守りたいもののことを、思い浮かべて」
「はっ! 自分の守りたいものは、桜色様ですっ!!」
「トマスさん、口に出さなくて大丈夫だから……!」
輪のあちこちから、くすくすと笑い声が上がった。
それでも、みんな、ちゃんと目を閉じた。
私も、目を閉じる。
そして、そっと、鑑定の目を開いた。
──あ。
つないだ手と手のあいだから。
とても小さな、光の粒が、ひとつ、またひとつと、うまれていた。
北の森のあの夜みたいに、空いっぱいに広がるような光じゃない。
蛍の光よりも、ずっと小さい。じっと目をこらさないと、見落としてしまいそうな。
その小さな光の粒が、ゆらゆらと、井戸の上を漂って、それから、ゆっくりと、北の空へと昇っていった。
そして。
あの細い線の、あの一点に、そっと、とけこんだ。
にじみ出していた黒いもやが、ほんの少しだけ、細くなった。
ほんの少し。でも、たしかに。
「……届いた」
私は、目を開いて、つぶやいた。
「みんなの光、ちゃんと届いたよ。……結界まで」
輪のあちこちで、みんなが、きょとんとして、それから、顔を見合わせた。
「……あたしたちの、光?」
「うん。ちっちゃくて、たぶん、みんなには見えないけど。ちゃんと、あったよ」
しばらく、井戸のまわりが、しんとした。
それから。
「……へえぇ。あたしのようなばあさんにも、光なんてもんが、あったんだねぇ」
マークのおばあさんが、しわだらけの自分の手を、しみじみと見つめた。
「五十年前、あの桃色の空を見上げて、あたしは、ただ祈ることしかできなかったよ。……そうかい。あのときの祈りも、もしかしたら、ちょっとだけ、届いてたのかねぇ」
おばあさんの目に、うっすらと、涙がにじんでいた。
マークが、そっぽを向いて、鼻をすすった。
「……ばあちゃん、楽しそうだな」
「楽しいよ。……こんなに楽しいのは、久しぶりだよ」
◇
それからの十日間で、井戸の輪は、王都じゅうに広がっていった。
北側から、南の下町へ。東の市場へ。いつの間にか、貴族街の小さな庭の井戸でも。ミレーユが、奥方たちのお茶会で、さりげなく広めてくれたらしい。
決まりがあるわけじゃない。だれかが割り振ったわけでもない。
朝、水を汲みに来た人が、なんとなく隣の人に手を差し出して、その人が、それを取る。それだけで、輪は、勝手に増えていった。
お兄様は、新しい輪ができたと聞くたびに、書斎の地図に、小さな印をひとつずつ足していった。決めるのではなく、追いかけるみたいに。
「……それで、サラ。診療所のあたりの井戸にも、新しい輪ができたそうだな。イザベラ嬢に、様子を聞こうと思っていたのだが」
お兄様の書斎。広げた地図の上で、お兄様が、ほんの少しだけ、眉を寄せた。
「……なぜか、この一週間、彼女からの返事は、すべておまえを通して届く。薬草も、私がいない時間にだけ、取りに来る。……何か、段取りに不備があったのだろうか」
「……さあ?」
私は、首をかしげた。
本当に、わからなかった。
「イザベラ様、最近、診療所が忙しいみたいだし。疲れてるんじゃないかな。この前も、紅茶に砂糖を三つも入れてたし」
「……砂糖を、三つ?」
お兄様の手が、地図の上で、ぴたりと止まった。
「あの人は、紅茶には、何も入れないはずだが」
「うん。だから、よっぽど疲れてたんだと思う」
「…………」
お兄様は、しばらく、何も言わなかった。
それから、眼鏡を外して、ハンカチでごしごしと拭いた。
もう、じゅうぶんきれいなのに。何度も。何度も。
……お兄様も、疲れてるのかな。
◇
「──おい。ちょっといいか」
その夜。窓ガラスが、こつんと鳴った。
窓を開けると、マークが、いつものように、枝にぶら下がっていた。
でも、その顔は、井戸の前でおばあさんを見ていたときとは、まるでちがった。
「北の国境沿いの村から、行商人が戻ってきた。……妙な噂を、持ち帰ってきやがった」
「噂?」
マークの緑の瞳が、ひどく硬かった。
「国境の村々に、ひとりの老人が現れたって。病人に手をかざすと、桃色の光があふれて、どんな病もたちまち治っちまうんだとよ」
……桃色の光。
背中が、すうっと冷たくなった。
「村の連中は、そいつをこう呼んでるそうだ」
マークは、一度、唇をかんだ。
「──『桃色の聖者様』ってな」




