第三部 胸が苦しい三人
ライザの元気がない。
気づいたのは、三日前だった。
朝の「おはようございますっ!」が、「おはようございます……」になった。紅茶の砂糖を、私のカップにも入れそうになった。私は、紅茶に砂糖を入れないのに。十二年、一度も間違えたことがないのに。
そして今日は、診療所へ持っていくはずのふかし芋の籠を、厨房に置いたまま、出かけようとした。
「……ライザ。何かあった?」
午後。芋畑の東屋で。
ふたりきりになったところで、私は、そっと聞いてみた。
「えっ。いえ、あの、なんにも……」
「籠、忘れてたよ? 芋の」
「……うっ」
ライザは、紅茶のポットを抱えたまま、しょんぼりとうつむいた。
それから、しばらく黙って、もじもじと、エプロンの端をいじっていた。
「……この前、市場に買い出しに行ったんですけど」
「うん」
「そこで、王宮の厨房の人たちが、話してて。……セドリック殿下に、縁談が、山のように来てるって。二十通も、三十通も。隣の国のお姫様からもって」
「へえ、そうなんだ。……まあ、殿下だもんね」
「……はい。殿下ですから」
ライザは、紅茶を、そっとカップに注いだ。
いつもの完璧な注ぎ方だった。でも、少しだけ、注ぎ口が震えていた。
「……それを聞いてから、なんか、こう、胸が。ぎゅうって。いえ、ちがうんです。お嬢様の、元の、婚約者様が、どこかに行ってしまうのが、さびしいだけで。それだけで!」
ライザは、ぶんぶんと、ものすごい勢いで首を振った。赤いポニーテールが、びゅんびゅんと揺れる。
「……そっか。胸が、ぎゅうって、なるんだ」
「なりません! ……いえ、ちょっとだけ、なりますけど」
……ちょっとだけ、なるんだ。
私は、紅茶のカップを、両手で包んだ。
「……じつはね、私も、最近、胸がちょっと、苦しいんだ」
「えっ……!? お嬢様、どこかお加減が!? 一か月も寝てらしたから!?」
「ちがうの、そういうのじゃなくて……」
王宮の中庭。白と紺の制服の背中が、ふたつ。同じ歩幅で。
「おい」。「余計なことを言うな」。
「サラフィーナ様」。
「……王宮に、行ったでしょう。あのときから、なんか、ずっと。ちくちくして、それから、すーっと、冷たくなるの」
「……ちくちくして、すーっと」
「うん。ライザは?」
「……それです。完全に、それです」
私たちは、顔を見合わせた。
そして、ふたりそろって、はあっと、深いため息をついた。
「……これ、なんという病気なんでしょうねぇ……」
「……鑑定しても、たぶん、出てこないと思う……」
◇
「──ごきげんよう。何をふたりで、しおれた花みたいになっているの」
東屋の入り口に、銀色の髪が立っていた。
イザベラ様だった。
診療所で使う薬草は、お兄様が公爵領から取り寄せて、この屋敷にまとめて届くように段取りしてくれている。イザベラ様は、診療所の帰りに、その分を受け取りに寄ったのだという。簡素な灰色のドレスの袖に、ちょっとだけ、薬草の緑がついている。
「イザベラ様。よかったら、ご一緒にどうぞ」
「……少しだけよ」
イザベラ様は、そう言いながら、ちゃんと私の隣に座った。ライザが、すばやく新しいカップを用意する。砂糖はなし。ミルクもなし。イザベラ様の好み。ここだけは、ちゃんといつものライザだった。
「……それで。何の話をしていたの」
「えっと……最近、胸が、苦しいって話を」
「胸が?」
イザベラ様が、眉をひそめた。診療所の先生の顔だ。
「どんなふうに。いつから。熱は?」
「熱はないんです。ただ、ある人のことを考えると、ぎゅうってなって」
「私は、ある人が別の人と話してるのを見ると、ちくちくして、すーっと、冷たくなって」
「あ、私も、それもあります! ある人が、お姫様とかとご結婚するかもって思うと!」
イザベラ様は、しばらく、何も言わなかった。
紫の瞳が、私を見て、ライザを見て、また私を見た。
それから、ゆっくりと、紅茶をひと口飲んで、カップを受け皿に戻した。
「……それ、病気じゃないわよ」
「えっ。じゃあ、なんですか?」
イザベラ様は、ものすごく、ものすごく小さな声で、つぶやいた。
「……さっさと言えばいいのではなくて?」
「……えっ」
「……えっ」
私とライザの声が、きれいにそろった。
「言うって、だ、だれにですか!?」
「な、なにを!?」
「……そこからなのね」
イザベラ様は、こめかみを、そっと指で押さえた。診療所で、何度言っても手を洗わない子どもを見るときの顔だった。
◇
しばらく、東屋が、しんとした。
なんだか、このままだと、ものすごく恥ずかしいことを言われそうな気がした。
私は、あわてて、話を変えることにした。
「そ、そういえば! イザベラ様、お兄様には、もう会った? 薬草、お兄様が用意してたよね」
「……ええ。今日は、執事の方から受け取ったけれど」
「そっか、お兄様、最近すごく忙しそうだもんね。……あ、そういえばね」
私は、何の気なしに、続けた。
「この前、お父様の書斎の前を通ったときに、聞こえちゃったんだけど。お兄様も、そろそろ『助けてくれる伴侶を選ぶ』とか、なんとか。お父様と話してたよ」
──かちゃり。
イザベラ様のカップが、受け皿の上で、小さく鳴った。
「……そう」
イザベラ様の声は、いつもどおりだった。すっと背筋を伸ばして、きれいな姿勢で。
「それは、よかったわね。ローゼンベルク家の跡取りですもの。あの人の段取りについていける方なら、さぞかし、立派な令嬢でしょうけれど」
そう言いながら、イザベラ様は、紅茶に、砂糖をひとつ入れた。
それから、もうひとつ。
もうひとつ。
……イザベラ様、紅茶に砂糖、入れない人なのに。
「……あの、イザベラ様……?」
「なにかしら」
「砂糖、三つ……」
「……今日は、疲れているのよ。診療所で。それだけよ」
イザベラ様は、砂糖が三つ入った紅茶を、一気に飲み干した。
そして、すっと立ち上がった。
「……用事を思い出したわ。ごきげんよう」
完璧な礼をして、イザベラ様は、東屋を出ていった。
芋畑のあいだの小道を、まっすぐに。いつもより、ずっと速い足どりで。
……公爵家の門とは、反対の方向へ。
◇
「……お嬢様」
「……うん」
「イザベラ様も、胸が、苦しいんでしょうか」
「……たぶん」
私たちは、反対方向へ歩いていく銀色の髪を、しばらく、黙って見送っていた。
「……お嬢様。さっき、イザベラ様、なんておっしゃいましたっけ」
「……さっさと言えばいいのに、って」
「……ですよね」
ライザが、そっと、私の顔を見た。
私も、ライザの顔を見た。
そして、ふたりとも、すぐに、ちがう方を向いた。
だれに。なにを。
私たちは、ふたりそろって、まだ、それを言葉にできなかった。
紅茶は、もう、すっかり冷めていた。




