第三部 閑話 外堀 (セドリック)
「──殿下。本日分でございます」
侍従が、書斎の机の上に、手紙の束を置いた。
どさっ。
置いた、というより、落とした、という音だった。
「……昨日より、多くないかな」
「はい。昨日は十七通、本日は二十三通でございます。侯爵家から六通、伯爵家から九通、子爵家から五通。それから、隣国の王家から、三通」
「……隣国まで」
「『桜色の聖女との婚約を解いた第二王子は、今、王都でいちばんのご優良物件』と、もっぱらの噂でございますので」
侍従は、いたって真面目な顔で、そう言った。
……優良物件。
僕は、二十三通の山を、しばらく黙って見つめていた。
◇
十一年。
公爵令嬢との婚約があったあいだ、僕のもとに、こんな手紙が届いたことは、一度もなかった。
当たり前だ。王家と公爵家が結んだ約束に、口を挟む家など、あるはずがない。夕食会でも、舞踏会でも、「娘をよろしく」と、意味ありげな目で年頃の娘を持つ奥方たちが近づいてくることも、なかった。
……あの婚約は、王家と公爵家が結んだ約束で、神殿がサラフィーナ嬢に目をつけてからは、彼女を守る盾にもなった。そう思っていた。
でも、それだけではなかったのだ。
あの婚約は、僕の盾でもあった。
この十一年、僕がずっと、厨房の裏口や芋畑のほうばかり見ていられたのは、あの婚約のおかげだった。
──君から言ってくれて、よかった。
謁見の間で、僕は、そう言った。本心だった。サラフィーナ嬢が、自分で選んで、自分の口で言ったことは、正しかった。それは、今もそう思う。
……ただ。
もう少しだけ、遅くてもよかったかもしれない。
せめて、あの子の返事を、もらってからでも。
◇
返事。
あの夕焼けの芋畑で。
僕は、たぶん、十一年ぶんの気持ちを、ぜんぶ言ったつもりだった。
あの子は、夕焼けより赤くなって、ものすごい勢いで逃げていって、振り返らずに、こう叫んだ。
──お、お芋! 今度また、半分こしましょうねっ!!
……それきりだ。
その後、公爵家を二度訪ねた。
一度目は、厨房の扉の影から、赤いポニーテールの先っぽだけが見えて、すぐに引っこんだ。
二度目は、応接室で、紅茶を出してくれた。
完璧だった。お辞儀の角度も、カップを置く位置も、砂糖壺を添える手つきも。公爵家の侍女として、何ひとつ、非の打ちどころがなかった。
ただ、一度も、目が合わなかった。
そして、砂糖壺を置くなり、「ごゆっくりどうぞ!」と、ものすごい速さで出ていった。
……砂糖壺の蓋が、半分だけ、ずれていた。あの子にしては、めずらしい。
それを見て、僕は、少しだけ、安心した。
嫌われては、いない。たぶん。
ただ、あの子は、今、きっと、こう考えている。
──殿下は王子様で、お嬢様の元婚約者で、私は厨房のマルタの娘だから。そんなこと、あるはずがない。あっていいはずがない。
……あの子なら、きっと、そう考える。十一年、あの子を見てきたのだ。それくらいは、わかる。
◇
だから、今、あの子の前に立って、もう一度まっすぐに気持ちを伝えても。
あの子は、きっと、また逃げる。
「身分が」「お嬢様に申し訳が」「王宮の皆さまが」。そういう、あの子のせいじゃない理由を、全部、自分で背負いこんで。
……それだけは、いやだった。
僕は、二十三通の手紙の山を、すっと、机の端に押しやった。
空いたところに、新しい紙を一枚、広げる。
あの子が、逃げる理由。
ひとつずつ、書き出していく。
ひとつ。お嬢様に、申し訳ない。
ふたつ。公爵家に、迷惑をかける。
みっつ。身分が、ちがいすぎる。
よっつ。王宮が、許さない。
いつつ。……母さんに、なんて言えばいいかわからない。
いつつめを書いて、少しだけ、笑ってしまった。たぶん、あの子なら、本当にこれを心配する。
……ならば。
ひとつずつ、先に、ふさいでおけばいい。
あの子が、もうどこにも、逃げられないように。
あの子が、自分の気持ちだけを、まっすぐに答えられるように。
……これを、世間では、「外堀を埋める」というらしい。
王子としては、あまり誇れたやり方じゃない。でも、十一年、完璧な笑顔で世の中を渡ってきた人間だ。こういうことは、得意なのだ。
◇
「──で、私のところに来たというわけね」
公爵家の、ヒルダ殿の部屋。
ヒルダ殿は、杖をひざに立てて、僕をじっと見ていた。
公爵と公爵夫人には、もう、話を通してある。公爵は、ハンカチを一枚、ぞうきんのように絞って「あの子を、よろしくお願いします」と言った。小さいころから娘のように可愛がってきた侍女だから、と。公爵夫人は、にこにこしながら「あら、やっとですのね」と言った。
……やっと、の意味は、怖くて聞けなかった。
「……はい。ヒルダ殿。あなたに、味方になっていただきたくて」
「あの子を、王子妃という鳥かごに入れるために?」
ヒルダ殿の声は、穏やかだった。でも、その目は、五十年、この家の奥で、何もかも見てきた人の目だった。
「あの子は、芋畑を駆け回って、厨房で大声で笑って、おたまで魔物に立ち向かう子よ。王宮の奥方たちのお茶会で、あの子の笑い声が消えるのを、私は見たくないわ」
……そうくるとは、思っていた。
僕は、まっすぐに、ヒルダ殿の目を見返した。
「鳥かごには、入れません。……芋畑ごと、守るつもりです」
ヒルダ殿が、ゆっくりと、まばたきをした。
「王宮の片すみに、芋畑をつくります。厨房も。あの子が、あの子のままでいられる場所を。……もし、王宮の誰かが、あの子の笑い声を消そうとしたら。そのときは、僕が、あの子の前に立ちます。九つのあの日、あの子が、僕の前で鍬を持って立っていたように」
しばらく、部屋が静かだった。
それから。
「……ふふっ」
ヒルダ殿が、小さく吹き出した。
「芋畑ごと、ね。……王子のくせに、あの子みたいなことを言うのねえ」
そして、杖を、こつんと鳴らした。
「いいわ。味方になってあげる。……それから、身分のことなら、方法がないわけじゃないわね」
「……と、おっしゃいますと?」
「それは、まだ内緒。私にも、考える時間がいるのよ」
ヒルダ殿は、いたずらっぽく、片目をつぶった。五十年前、聖女と騎士のあとを追いかけていた小さな女の子は、たぶん、こんな顔で笑っていたのだろう。
「……それより、殿下。あの子のところより前に、もうひとり、ちゃんとご挨拶しておかなきゃいけない人がいるでしょう」
……やはり、そこに行きつくのか。
いつつめ。
◇
公爵家の厨房は、夕食の支度のまっ最中だった。
大鍋から湯気がもうもうと立ち、かまどの火がごうごうと燃えている。その真ん中で、恐ろしく大きな包丁を、たんたんと勢いよく鳴らしている人がいた。
赤い髪を、きゅっと頭の上でまとめた、がっしりした肩の女の人。
厨房長のマルタ殿。
あの子の、母さんだ。
……ちなみに、あの子は今、サラフィーナ嬢のお供で、診療所に行っている。その時間を選んだのは、もちろんわざとだ。
「──あらまあ、殿下!? こんなところに、どういたしました!?」
マルタ殿が、包丁を持ったまま、目をまん丸にした。厨房じゅうの下働きたちが、いっせいに手を止めて、こちらを見ている。
僕は、厨房の入り口で、深く頭を下げた。
「……マルタ殿。今日は、お願いがあって参りました」
「お、お願いですかい!? 王子様が、あたしに!?」
「……ご息女のことです」
厨房が、しんと静まり返った。
大鍋の煮える音だけが、ぐつぐつと響いている。
マルタ殿は、しばらく、僕を頭のてっぺんからつま先まで、じろりと見ていた。あの子と、よく似た茶色の目で。
それから、包丁を、まな板の上に、ことりと置いた。
「……殿下。九つのとき、お嬢様の芋畑で、泣いてた男の子ですね」
「……覚えていらっしゃいましたか」
「あの日ね、あの子、厨房の窓から外を見てて、急にこう言ったんですよ。『なんか、あの子、さびしそう』って」
マルタ殿は、窓の外の芋畑のほうを、ちらりと見た。
「それで、自分のおやつのふかし芋をつかんで、走って出ていったんです。……あたしには、畑の向こうの男の子なんて、ちっとも見えなかったのにねえ」
……。
知らなかった。
あの日、あの子は、芋を踏まれたくなくて駆けてきたのだと思っていた。鍬を持って、「踏まないでください!」と仁王立ちしていたから。
ちがったのだ。
泣いている王子を見つける、ずっと前に。あの子は、厨房の窓から、ひとりぼっちの男の子を見つけていた。
笑顔の仮面をつけるより、ずっと前の僕を。
十一年、ずっと、知らなかった。
マルタ殿は、腰に両手を当てて、ぎろりと僕をにらんだ。
「あたしゃね、殿下。あの子をさびしくさせる男は、お断りですよ」
「……させません」
僕は、まっすぐに答えた。
「今度は、僕が見つけます。あの子が、さびしそうなときには、いちばんに」
マルタ殿は、もう一度、僕をじろりと見た。
それから、ふんっと鼻を鳴らして、包丁を取り上げた。
「……あとは、あの子が決めることですよ。あたしは、口は出しません。……ただ、ね」
たんっ、と、大きな芋が、まっ二つに割れた。
「あの子が厨房で話すことといったら、殿下のことばっかりでしたよ。殿下はいつもこの茶葉のお茶をおかわりなさるから、きっとお好きなんだ、って。お菓子も甘いものばっかり召し上がるから、今日はうんと甘いのにしよう、って。……十一年、ずうっと、ですよ」
割れた芋の断面から、ほかほかと、白い湯気が立ちのぼっていた。
僕は、何も言えなかった。
ただ、深く、もう一度、頭を下げた。
◇
厨房を出て、裏庭を横切っているときだった。
「──……殿下」
後ろから、落ち着いた声がした。
振り返ると、ルーカスが、書類の束を小脇に抱えて、立っていた。
眼鏡の奥の目が、僕と、僕が出てきた厨房の裏口と、その前に寄ったヒルダ殿の部屋の窓を、順番に見た。
「……父上と母上と、大叔母上と、厨房長。……外堀ですか」
「……段取り、と言ってほしいな」
ルーカスは、しばらく黙っていた。
それから、眼鏡を押し上げて、一枚の紙を、書類の束から抜き出して、差し出した。
「……公爵家の使用人の、勤務表です。ライザが非番の日と、サラのお供の当番がない時間に、印をつけてあります。……会うなら、あの子が仕事を気にしなくていい時間のほうがいいでしょう」
「……ルーカス」
「妹の侍女が、妹のせいで、自分のことを後回しにするのは、理屈に合いませんので」
ルーカスは、無表情のまま、そう言った。
「……段取りの話です」
……ふふっ。
僕は、勤務表を受け取って、丁寧にたたんだ。
わかっているよ。無駄なことは一つも書かない報告書のいちばん下に、わざわざあの子の一行を書き足してくる男だ。
「……ありがとう。この恩は、いつか、君の番が来たときに返すよ。……銀色の髪の、どなたかとの段取りのときにでも」
「……私に、そのような段取りの予定はありません」
「そうかな。理屈は、あとからついてくるものだよ」
ルーカスは、何も言わずに、眼鏡を押し上げた。
押し上げる指が、めずらしく、少しだけ、もたついていた。
……この男は、自分のことになると、とたんに段取りが下手になるらしい。




