第三部 扉の前に、誰もいない
朝、扉を開ける。
廊下の壁。いつもの場所。
……誰も、いない。
わかっているのに、毎朝、見てしまう。十二年のくせは、二十日やそこらでは、抜けてくれないらしい。
「──おはようございますっ!! 桜色様っ!!」
「わぁっ!?」
廊下の向こうから、地鳴りのような声が飛んできた。
警護隊の制服の、大きな体。トマスさんだ。
アルが王宮へ行ったあと、お父様が警護隊に頼みこんで、しばらくのあいだ、トマスさんが私の護衛をしてくれることになったのだ。
「本日も、全力でお守りいたします!!」
「う、うん。ありがとう。……あの、トマスさん、お屋敷の中は、もう少し小さな声でも大丈夫だよ?」
「はっ! 承知しました!!」
……全然、小さくなっていない。
でも、トマスさんは、本当によくしてくれる。朝は誰より早く扉の前にいて、夜は誰より遅くまで帰らない。診療所では、水の樽を一度に四つも担いでくれる。
ただ。
階段でつまずきそうになっても、「三歩手前で申し上げましたが」とは言わない。
無茶をしようとしても、「ご自分が何人いらっしゃるおつもりで」とは言わない。
代わりに、「さすが桜色様です!!」と、目をきらきらさせて、一緒に無茶をしてくれる。
……ちがう。
いや、トマスさんは何も悪くない。それは、わかっている。
でも、ちがうのだ。
◇
「──お嬢様、お手紙ですよーっ!」
その日の午後。ライザが、一通の封筒を、ひらひらと振りながら入ってきた。
ものすごい勢いで、椅子から立ち上がっていた。
「……お嬢様、勢い。勢いがすごいです」
「えっ、あ、うん。たまたまだよ、たまたま」
王宮の、騎士団の封蠟。
差出人の名前は、アルフレッド。
私は、そっと、封を切った。
中には、小さな便箋が、一枚だけ。
【お嬢様へ。 本日も、変わりなく勤めております。 トマス殿の声で、お屋敷の窓硝子が割れておりませんか。 無茶は、ほどほどになさいませ。……三歩手前で申し上げる者が、おりませんので。 ──アルフレッド】
「…………」
「お嬢様? なんて書いてあったんです?」
「……トマスさんの声で、窓ガラスが割れてないかって」
「えっ、それだけですか!?」
「それだけ。……あと、無茶はほどほどにって。三歩手前で言う人が、いないからって」
ライザが、なんとも言えない顔をした。
私は、便箋を、もう一度、はじめから読んだ。
もう一度。もう一度。
丁寧で、短くて、そっけなくて、嫌味で。
……どうしよう。うれしい。
「……お嬢様、笑ってますよ」
「笑ってないよっ!」
「笑ってます。それも、すっごく。……お返事、書かれるんでしょう? 便箋、何枚ご用意しましょうか」
「……五枚」
「お嬢様、比率がおかしいです」
◇
結局、五枚では足りなかった。
診療所が南と東にもできたこと。イザベラ様が、子どもたちに「先生」と呼ばれて、真っ赤になっていたこと。ギデオン様が、薬の鍋の前で居眠りして、もう少しでひげを焼きそうになったこと。トマスさんの声で、公爵家の窓ガラスが一枚、ひびが入ったこと。
それから。
北の空の、あの細い線のこと。
結界は、ちゃんと持ちこたえている。でも、あの細い線のあたりから、うっすらと、黒いもやが、にじんでいるように見える日があること。
……書きながら、ふと、ペンが止まった。
こんなこと、書いたら、アルは心配するだろうか。
……たぶん、する。そして、「お嬢様におかれましては、空を見上げすぎて転ばれないように」とか、返してくる。
私は、小さく笑って、その一行も、書き足した。
いちばん最後に、ちょっとだけ迷って、もう一行。
【アルは、元気? ちゃんと、ごはん、食べてる?】
……これじゃ、お母さんみたいだ。
でも、消さなかった。
◇
王宮へ行く用事ができたのは、それから十日後のことだった。
結界のようすを、陛下の前で、ギデオン様といっしょに報告する。大事なお仕事だ。ちゃんとわかっている。
わかっているけれど。
「……お嬢様。それ、今日で三度目のお着替えですけど」
「だって、王宮だもん! それに、この上着だと、ちょっと地味かなって……」
「その前のも、その前の前のも、全部、よくお似合いでしたよ?」
ライザに、ものすごくやさしい目で見られた。
……一緒に暮らしている人には、何もかも、バレている気がする。
◇
謁見の間での報告を終えて、回廊を歩いていたときだった。
中庭のほうから、剣と剣のぶつかる音が、聞こえてきた。
かん、かん、かんっ。
速い。それに、すごく、きれいな拍子。
なんとなく、足が、そちらへ向いていた。
回廊の柱のあいだから、中庭をのぞく。
王宮騎士団の、白と紺の制服。二人の騎士が、稽古用の剣を、打ち合っていた。
ひとりは、黒い髪。
──アル。
胸が、どきんと、大きく鳴った。
二十日と少しぶりの、背中だった。白と紺の制服は、公爵家の護衛の服より、ずっと、よく似合っていた。
そして、もうひとりは。
紺色の、短い髪。
背が高い。アルと、ほとんど変わらない。手足がすらりと長くて、剣を振るたびに、紺色の髪が、さっと風を切る。
女の人だった。
剣と剣が、ぶつかる。離れる。またぶつかる。
アルが踏み込むと、その人は半歩だけ下がって受け流す。その人が打ち込むと、アルは半歩だけ身をそらす。
まるで、相手が次にどう動くのか、言葉にしなくても、ぜんぶわかっているみたいに。
──そのとき。
紺色の髪の人の剣が、それまでとちがう角度から、ひゅっと鋭く伸びた。
アルの動きが、ほんの一瞬だけ、遅れた。
剣先が、アルの頬のすぐ横をかすめる。間一髪で、アルが身をそらしてよけた。
……思わず、柱をつかんでいた。
「──そこまで!」
どこかで、教官らしい声がした。
二人の剣が、ぴたりと止まった。
「……ふぅ。やっぱり、あんたとやると、息が上がるわね」
紺色の髪の人が、額の汗を手の甲でぐいとふきながら、笑った。さっぱりした、飾らない笑い方。
「……そっちこそ。最後のは、危なかった」
「でしょう? あれ、あんた用に、とっておいたのよ。……驚いた?」
「……少しな」
「あはは。やった。やっと一本、あんたの顔色を変えてやったわ」
アルが、少しだけ、息を吐いた。
無表情なまま。でも、その息の吐き方は、私が何度も見たことのある、あれだった。
──やれやれ、という、あの息。
私にしか、向けられないと思っていた、あの。
……ちくり。
胸のどこかが、小さく痛んだ。
紺色の髪の人が、腰にぶら下げていた手ぬぐいを、ひょいとアルに放った。
アルは、それを、見もしないで、片手で受け取った。
……ちくり。ちくり。
どうしてだろう。
北の森でも、大聖堂でも、こんな痛みは知らなかった。
狼の牙よりも、オルドヴィンの光よりも、ずっと小さくて、ずっと、しつこい痛み。
──あ。
これが、もしかして。
やきもち、というやつだろうか。
◇
そのとき。
アルが、ふいに、こちらを振り向いた。
灰色の瞳が、柱のあいだの私を、まっすぐに見つけた。
……十二年、どんなに人ごみの中でも、この人は、一瞬で私を見つけた。
無表情のままの顔が、ほんの少しだけ、ほどけた気がした。
でも、アルが口を開くより、先に。
「──サラフィーナ・ローゼンベルク様で、いらっしゃいますね」
紺色の髪の人が、こちらに歩いてきて、私の前で、すっと片ひざをついた。
「王宮騎士団第二小隊、カミラと申します。……そこにおります、アルフレッドと、組ませていただいております」
きれいな言葉づかいだった。騎士の礼も、ひとつも崩れていない。さっき、アルに「あんた」と言って笑っていた人と、同じ人とは思えないくらい。
「……ローゼンベルク公爵家の、サラフィーナです。アル……アルフレッドが、お世話になっています」
ちゃんと、お辞儀した。公爵令嬢らしく。
カミラさんが、すっと立ち上がる。
近くで見ると、もっと背が高かった。見上げないと、顔が見えない。日に焼けた肌、きりっとした濃い眉。澄んだ、深い青の瞳。
その瞳が、にこりと細くなった。
「こちらこそ。……いつも、お嬢様のお話は、伺っております」
「……え?」
「──おい」
低い声がした。
いつのまにか、アルが、カミラさんの隣に立っていた。
「余計なことを言うな」
「あら。ほんとのことでしょ」
「……カミラ」
「はいはい。黙りますって」
カミラさんは、肩をすくめて、ひじで、アルの腕をこつんとつついた。
アルは、それを払いもしないで、やれやれと、小さく息を吐いた。
ふたりのひじとひじが、ふれそうなくらい、近かった。
……アルが。
「おい」って、言った。「言うな」って。
十二年、一度も聞いたことのない言い方だった。
丁寧な言葉の鎧を、ぜんぶ脱いだ声。どこにでもいる、ふつうの若い騎士の声。
……カミラさんには、そう話すんだ。
それに。
いつも、お嬢様のお話。
どんな話を、しているんだろう。私の知らないところで。私の知らない、あの声で。
胸のちくりとした痛みが、すうっと、冷たいものに変わっていく。
痛いのとは、ちがった。
さびしい、だった。
アルが、こちらを向いた。
その瞬間には、もう、いつもの無表情に戻っていた。
「……失礼いたしました、サラフィーナ様」
……サラフィーナ様。
お嬢様、じゃなかった。
当たり前だ。アルはもう、公爵家の護衛じゃない。王宮騎士団の騎士だ。公爵令嬢を、そう呼ぶのが正しい。わかっている。
わかっているのに。
「……ううん。大丈夫」
私は、笑顔をつくった。たぶん、生まれて初めて、ちゃんと、つくった笑顔だった。
「訓練の途中ですので、これで失礼いたします」
アルが、完璧な礼をした。公爵家にいたころと、ひとつも変わらない、きれいな礼。
そして、背を向けて、歩き出そうとして。
ほんの少しだけ、足を止めた。
「……お帰りの際は、回廊の三段目の段差に、お気をつけください。お嬢様は、ああいうところで、よくつまずかれますので」
振り返らずに、それだけ言って。
アルは、カミラさんと並んで、中庭の向こうへ歩いていった。
白と紺の制服の背中が、ふたつ。同じ歩幅で。
……いつもの嫌味だった。
なのに、とても、さびしい気がした。




