第二部 待っていてください
「──陛下。本日は、セドリック殿下との婚約のことで、お願いに参りました」
王宮の、小さな謁見の間。玉座の陛下の少し後ろに、セドリック殿下が控えている。
私の隣には、お父様。昨日の夜、ちゃんと話して、一緒に来てもらった。王家と公爵家が結んだ約束を解くのに、私ひとりでは足りないから。
アルは、謁見の間には入れない。扉の外の控えの間で、待ってくれている。
でも、言葉は、私の口から言うと決めていた。
「この婚約は、私が七つで、殿下が九つのときに、王家と公爵家とで結んでいただいたものです。…ですが、私は、自分の結婚は、自分で決めたいと思います。誰かに決めてもらうんじゃなくて、自分で選んだ人と」
陛下の眉が、少しだけ動いた。その後ろで、殿下が目を見開くのが見えた。
七つの私が、芋のことしか考えていなかったころに、知らないところで決まった婚約。神殿から私を守るために、殿下が「いちばん丈夫な盾」と呼んで、ずっと全力で守ってくれた婚約。もう大丈夫、必要ない。
「……どうか、この婚約を、解消させてください」
私は、深く頭を下げた。隣で、お父様も、同じように頭を下げてくれた。
「殿下には、たくさん守っていただきました。本当に、感謝しています。……だからこそ、殿下にも、殿下がご自分で選んだ方と、幸せになっていただきたいんです」
しばらく、だれも、何も言わなかった。
やがて、陛下が、殿下のほうを振り返った。
「……セドリック。そなたは、どう思う」
「……父上。私からも、お願いいたします」
殿下は、陛下の前に進み出て、まっすぐに頭を下げた。
陛下は、頭を下げた私たちの姿を、しばらく黙って見ていた。それから、静かに言った。
「……顔を上げよ、ローゼンベルク嬢。公爵も。……王家と公爵家の縁は、婚約ひとつで結ばれているものではない。この国を守ったそなたたちへの恩も、何ひとつ変わらぬ。そなたが自分で選ぶというのなら、それでよい」
「……ありがとうございます、陛下」
顔を上げると、殿下と目が合った。
殿下は、いつもの完璧な笑顔とは少しちがう、肩の荷が下りたような、やわらかい顔で、小さくうなずいた。
「……君から言ってくれて、よかった」
隣で、お父様が、今日はたった一枚だけ持ってきたハンカチで、そっと目元を押さえていた。
謁見の間を出たあと、王宮の回廊で。私は、ちょっとだけ考えて、殿下に言った。
「……それと、殿下。好きな人、いるんですよね?」
殿下の笑顔が、ぴたりと止まった。
「……どうして、そう思うのかな」
「うーん。なんとなく、です」
だって、今の殿下の顔。ちょっとだけ、知っている気がする。
誰かのことを考えているときの、胸がぎゅっとなるような顔。
……たぶん、私も、最近、よくしている顔。
「誰かはわからないけど。……がんばってくださいね、殿下」
殿下は、しばらく、ぽかんと私を見ていた。
それから、ふっと、笑った。
「……君は、本当に、面白いね。……うん。がんばるよ」
控えの間で待っていたアルと合流して、帰りの馬車に乗りこむ。
動き出した馬車の中で、私は、いちばんに言った。
「アル。……殿下との婚約、解消してきたよ。自分の結婚は、自分で決めたいって。陛下に、自分でお願いして」
向かいの席で、アルが、動かなくなった。
灰色の瞳が、ほんの一瞬、大きく見開かれた。
「……左様で、ございましたか」
いつもの丁寧な言葉。なのに、その声が、ほんの少しだけ、かすれていた。
それきり、アルは、屋敷に着くまで、窓の外ばかり見ていた。
◇
その日の夕方。
屋敷に戻って、自分の部屋の窓を開けると、芋畑が見えた。
夕焼けの中、赤いポニーテールが、花かごを抱えて、芋を掘っている。厨房の夜の支度のためだろう。
そこへ、金色の髪が、ゆっくりと歩いていく。……いつものように、先触れもなしに来たらしい。
「……あ。殿下だ」
「……お嬢様。窓からのぞき見をなさるのは、公爵令嬢としていかがなものかと」
いつの間にか、後ろにアルが立っていた。そう言いながら、私のすぐ隣で、一緒に窓の外を見ている。
「……アルも見てるじゃん」
「護衛として、窓の外の安全を確かめておりますので」
……ずるい。
窓の外。芋畑の真ん中。
殿下が、ライザの前で立ち止まった。
窓は少しだけ開いていて、夕方の風に乗って、声が、とぎれとぎれに聞こえてきた。
「──殿下!? あ、そこ、お嬢様の芋です! 踏まないでください!」
「……うん。約束したからね。もう踏まないよ」
「約束?」
「……今日は、君に、芋のお礼を言いに来たんだ」
殿下の声は、いつもより、ずっと静かだった。
「お礼? ……あっ、あの日のお芋ですか? やだ、殿下ったら、まだ気にしてらっしゃったんですか。お礼なんていいですよ、半分こしただけですし!」
ライザが、花かごを抱えたまま、けらけらと笑った。
「……うん。でも、ちゃんと、僕の言葉で言いたかったんだ。ずっと」
殿下は、ライザの前で、まっすぐに頭を下げた。
王子様が、侍女に。
「九つのあの日。泣いていた僕を見つけてくれて、ありがとう。……芋、おいしかった」
ライザの笑い声が、ぴたりと止まった。
「……殿下?」
殿下は、花かごの中の芋を、ひとつ、そっと取り上げた。
「あの日から、僕は、何度もこの屋敷に来た。『婚約者の顔を見に』って。……でも、本当は、ずっと、別の人の顔を見に来ていたんだ」
「……べ、別の人……?」
「芋畑で、僕の泣き顔を見つけてくれた人の。……その人が笑っているのを見るのが、僕は、いちばん好きだった」
夕焼けの中で。
ライザの顔が、夕焼けよりも、ずっと赤くなっていくのが、窓からでもよく見えた。
「……え。……えっ。……えええええええっ!?」
ライザは、花かごを抱えたまま、くるりと背中を向けて、芋畑の向こうへ、ものすごい勢いで走り出した。
……と。
少し走ってから、急に、ぴたりと止まった。
そして、ふり返らないまま、大きな声で叫んだ。
「──お、お芋! 今度また、半分こしましょうねっ!!」
それだけ言うと、また、ものすごい勢いで、厨房のほうへ走っていった。
芋畑の真ん中に、殿下が、ひとり、取り残されていた。
その肩が、小さく、ふるえていた。
泣いているのかと思った。
でも、ちがった。
殿下は、芋をひとつ握りしめたまま、おなかを抱えて、笑っていた。
九つのあの日、芋畑で初めて吹き出したときと、たぶん、同じ笑い方で。
「……殿下は、本日は、泣かれずに済んだようですね」
隣で、アルが、ぼそりとつぶやいた。
「……え、アル、もしかして、ずっと知ってたの?」
「……何のことでしょうか」
「殿下の好きな人が、ライザだってこと!」
「…………今、お気づきになったのですか」
アルは、ものすごく遠い目をしていた。
……だって。だって、ねえ。
それじゃあ、まつ毛のゴミのときの、あの勝ち誇ったような目は。
「……アル。もしかして、あのとき……」
「──お嬢様。窓からの風が冷えてまいりましたので」
アルは、すっと窓を閉めた。ものすごく速く。
◇
その夜。
夕食のあと、お兄様に呼ばれて、書斎へ行った。
「……殿下から、もうひとつ、陛下のお言葉を預かっている」
お兄様は、一通の封筒を、机の上に置いた。王家の紋章の封蠟。
「──アルフレッドを、王宮騎士団に迎えたい、と」
……え。
「大聖堂と北の森での働きを、陛下がご覧になっていた。……オルドヴィンは、結界の外で、何をしているかわからない。その奥には、魔竜がいる。……王宮騎士団は、今、ひとりでも多く、本当に強い騎士を必要としている」
お兄様は、眼鏡を押し上げた。
「……それに、王宮騎士団で功を立てれば、いずれ、代々受け継げる爵位も夢ではない。……一介の騎士の息子には、これ以上ない話だ」
「……アルは、何て」
「……もう、返事をしたそうだ」
お兄様は、少しだけ、目をそらした。
「『お受けします』と。……三日前に。おまえが、まだほとんど歩けなかったころだ」
……三日前。
私が、なにも知らないうちに。
◇
扉を開けると、やっぱり、アルがいた。
壁に背をつけて、まっすぐに前を向いて。十二年、ずっとそうだった場所で。
「……アル。王宮騎士団に行くって、本当?」
アルは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと、うなずいた。
「……はい。七日後に、王宮へ参ります」
「……どうして、私に言ってくれなかったの」
「……お嬢様が、まだおひとりで立てないうちに、申し上げたくはありませんでしたので」
……ずるい。
そんな言い方をされたら、怒れない。
「……私は、今日、いちばんにアルに言ったよ。婚約のこと」
「……はい」
「なのに、アルは、三日も黙ってた」
「……申し訳、ございません」
アルは、目をそらさなかった。言い訳も、しなかった。
「……どうして、行くの」
「…………」
「私の護衛でいてくれるんじゃなかったの。……ずっと、扉の前にいてくれるんじゃなかったの」
声が、ふるえた。
わかっている。それは、わがままだ。アルにとって、これ以上ない話だって、お兄様も言っていた。
でも。
この扉を開けても、もう、この人がいないんだと思ったら。
「……お嬢様」
アルが、ゆっくりと、私のほうを向いた。
「私は、十二年、お嬢様の一歩後ろで、お守りしてまいりました」
低い、静かな声。
「ですが、大聖堂でも、北の森でも。……私の手は、何度も、お嬢様に届きませんでした。あの光を受けたときも。お嬢様が一か月、目を覚まされなかったときも。……私には、扉の前に立っていることしか、できませんでした」
灰色の瞳が、まっすぐに私を見ていた。
「これから、結界の外で何かが起きる。そのとき、お嬢様は、きっと、いちばん前に立たれる。……そのもう一歩前に立つには、今の私では、足りないのです」
「……アル」
「それに。……護衛のままでは、届かないところが、ございますので」
届かないところ。
それがどこのことなのか、私には、わからなかった。
でも、その声が、ずっと遠くを見ているような声だったから。
……止められないんだ、と思った。
「……『行かないで』って言ったら?」
それでも、聞いてしまった。
アルは、ずいぶん長いあいだ、黙っていた。
それから、いつもより、ずっと低い声で、答えた。
「……それでも、参ります」
そして。
いつもの完璧な礼を、しなかった。
代わりに、私の前に、ゆっくりと、片ひざをついた。
六歳のあの日、泥だらけの私の手をふいてくれたときと、同じ高さで。
大きな、傷だらけの手が、私の手を、そっと取った。
「──……待っていてください」
小さな声だった。
丁寧な言葉だった。でも、嫌味も、理屈も、「護衛として」も、何もついていなかった。
十二年で、はじめて聞く、アルの、ただのお願いだった。
胸の奥が、ぎゅうっと、痛いくらい、あたたかくなった。
……ああ。
もう、ごまかせない。
私は、この人が。
「……うん」
私は、取られた手を、そっと握り返した。
「待ってる。……ずっと、待ってるから」
アルの灰色の瞳が、ゆらりと揺れた。
そして、その口元が、ほんの少しだけ、ほどけた。
大聖堂の審問のあと、目を覚ました日に。一瞬だけ見せてくれた、あの笑顔。
今度は、もう少しだけ長く、そこにあった。
(第2部 終わり)




