第二部 閑話 桃色の忘れ物 (ユリウス)
茂みの枝に、一筋だけ、引っかかっていた。
北の森の、要石へと続くけもの道。私は、祖父の命じるまま、「聖女を名乗る公爵令嬢が、何をしたのか」を調べに来ていた。
月の光の中で、それは、ほんのりと光っていた。
桜色の、髪。
祖父は、「証拠として持ち帰れ」と言った。だから私は、それを、白い布に包んで、懐にしまった。
あのときは、ただそれだけのことだった。
……そのはずだった。
◇
私は、子どものころから、祖父の字で書かれた祈りの言葉で、字を習った。
祖父の定めた時間に起き、祖父の定めた時間に祈り、祖父の定めた道を歩いた。それが、一族の誇りだと教えられた。
だから、祖父に「あの令嬢に求婚しなさい」と言われたときも、何も思わなかった。
聖女の婚姻は、神殿が定める。その定めを、王家に突きつけるための、政治の一手。それ以上でも、以下でもない。
忘れ物を届けるという口実で、公爵家を訪ねた。白い布の中の、桜色の髪を、差し出した。
あの令嬢は、琥珀色の瞳を、まん丸にしていた。
求婚の言葉を口にしたとき、あの令嬢の後ろで、黒い髪の護衛が、剝き出しの剣のような目をしていた。
私は、それを、ただ、観察した。
──なるほど。この令嬢を守るものは、王家の婚約だけではないらしい。
それだけだった。
◇
最初に調子が狂ったのは、王宮の回廊だった。
「……私は、あなたを利用しようとしているだけです」
そう告げて、私は、返事を待たずに背を向けた。
振り返らなかった。けれど、背中に、あの琥珀色の瞳がずっと向けられているのがわかった。怒っている目ではなかった。何かを、確かめようとしている目だった。
……なぜ、あのとき、あんなことを口にしたのか。
自分でも、わからなかった。祖父の孫としては、ありえない一言だった。
ただ、あの琥珀色の瞳に、嘘をつきたくなかったのだと、今ならわかる。
◇
新月の夜。奥の書庫。
「……いい加減な気持ちで、答えたくないんです」
求婚の返事を求めた私に、あの令嬢は、そう言った。
いい加減な気持ちで。
……私の求婚は、祖父の命令だ。政治の一手だ。いい加減どころか、私の気持ちなど、どこにも入っていない。
それを、あの令嬢は、まるで、ひとりの人間からの、本当の求婚のように受け取って、真剣に、悩んでいた。
生まれて初めてだった。
祖父の孫としてではなく。神殿の若い神官としてでもなく。
私という、ただのひとりの人間として、だれかに、まっすぐ向き合ってもらえたのは。
……その後、初代聖女の日記の、本当の定めを読み上げるあの令嬢の声を聞きながら、私は、小さく笑った。
笑ったのは、一族の嘘が暴かれたからではない。
──それなら、私は、自分で選んでもいいのだ。
そう思ったら、口元が、勝手にゆるんでいた。
◇
北側の診療所に駆けつけたのは、祖父が治癒の寄進を倍にしたと知った、その後だった。
倉庫の薄暗い入り口で、あの令嬢は、一晩じゅう治癒と浄化を繰り返して、疲れきった顔をしていた。
目の下に、濃い陰。それでも、列に並んだ子どもに、笑いかけていた。
──来ずには、いられなかった。
私は、あのとき、そう言った。本当のことだった。
薄紫の小瓶を、自分で飲み干したときも。「聖魔法の気配はない」と、神殿の騎士たちに告げたときも。
もう、祖父のための一手ではなかった。
──保留のお返事は、まだ有効でしょうか。
裏手で、そう尋ねたとき。
あの令嬢の後ろで、黒い髪の護衛が、ずっと、剣の柄を握っていた。
忘れ物を届けた日と、同じ目で。いや、あの日よりも、ずっと、切羽詰まった目で。
そして、あの令嬢は、その目に、少しも気づいていなかった。
……そのとき、私は、たぶん、わかっていたのだと思う。
これは、分のいい勝負ではない。
◇
大聖堂で、祈り手の円から立ち上がったとき。
自分のひざが、震えているのがわかった。
生まれてからずっと、祖父の定めた道を歩いてきた。その道を、自分の足で外れる。たった一歩が、こんなに重いとは知らなかった。
それでも立てたのは、王族の席のいちばん後ろに、フードの奥から、あの琥珀色の瞳が、こちらを見ているのがわかったからだ。
あの瞳に、もう二度と、嘘をつく自分を見せたくなかった。
──それは、祖父の字です。
そう口にした瞬間、私は、二十年ぶんの何かを、ぜんぶ失った。
そして、たぶん、生まれて初めて、自分のものを、何かひとつ、手に入れた。
◇
あの令嬢が眠っていた一か月、私は、一度も公爵家を訪ねなかった。
眠っている令嬢の寝顔を、求婚中の男が見に行く。それは、あまりにも、礼を欠く。
代わりに、毎日、神殿に戻ってくる妹に、ただひとことだけ、尋ねた。
「……サラフィーナ嬢は」
「まだ寝ているわ。……あの共犯者、いつまで寝ているつもりなのかしら」
妹は、毎日、同じように怒って、それから、私の顔をじっと見た。
「……兄様。自分で、見に行けばいいのに」
「……その役は、もう席が埋まっているようだからね」
妹は、何も言わなかった。
ただ、その紫の瞳が、少しだけ、やわらかくなった。
公爵家の、あの令嬢の部屋の扉の前に。一日じゅう、一か月、立ちつづけている男がいる。
私は、それを、妹から聞くより前に、もう知っていた。
◇
あの令嬢が目を覚まして、四日目。
芋畑の東屋で、私は、祖父の命令で申しこんだ求婚を、取り下げた。
あの令嬢は、ほっとした顔をした。
……わかりやすい人だ。そんなに、隠しもせずに。
だから、つい、口がすべった。
──私の気持ちまで、取り下げるつもりは、ありません。
返事は、いらない。もう、わかっているから。
ただ、私が、生まれて初めて自分で選んだものを、あの人に、知っていてほしかった。
それだけだ。
芋畑の向こうへ歩きながら、背中で、かちゃり、と小さな音がしたのを聞いた。
剣の柄に、手をかける音。
……ふふ。
小さく笑って、私は、振り返らずに歩いた。
懐の中には、今も、白い布に包んだ、あの忘れ物がある。
……いや。
あのとき返したのは、半分だけだった。
これだけは、一生、誰にも言わないつもりだ。




