第二部 1ヶ月ぶりのおはよう
目を開けると、天蓋のひだが見えた。
知っているひだだった。公爵家の、私の部屋の、私のベッド。
カーテンのすきまから、朝の光が、細く差しこんでいる。
体を起こそうとして、うまく力が入らないことに気づいた。腕が、なんだか細い。ひざが、ふるふるする。
……一か月。本当に、寝てたんだ。
──目を開けたら、いちばんに、扉の前を見てごらんなさい。
紬の声が、耳の奥に残っていた。
私は、ベッドの柱につかまりながら、そっと床に足をついた。ひんやりと冷たい。一歩、二歩。壁に手をつきながら、扉まで歩いていく。
取っ手に、手をかける。
そっと、開けた。
◇
いた。
扉のすぐ横。壁に背をつけて、まっすぐに前を向いて。
いつもと同じ場所。いつもと同じ姿勢。
でも、いつもと、少しだけ、ちがった。
頬が、少しこけていた。あごに、うっすらと、ひげの影がある。いつもきちんとしている黒い髪が、少しだけ、乱れている。
灰色の瞳が、ゆっくりと、こちらを向いた。
そして、動かなくなった。
「……おはよう、アル」
自分の声が、かすれていた。一か月ぶりに出した声。
アルは、何も言わなかった。
口を開いて、閉じて、また開いて。それでも、声が出てこないみたいだった。
十二年、いつだって、すぐに嫌味を返してきた人が。
ふら、と、ひざが結局力を失った。
床に倒れる前に、大きな手が、私の腕をつかんでいた。
いつもより、ずっと強い力で。いつもより、ずっと、ふるえる手で。
「……一か月です」
やっと出てきた声は、ひどくかすれていた。
「寝坊にも、ほどがございます」
「……ごめん」
嫌味だった。ちゃんと、いつもの嫌味だった。
なのに、その声が、ひと言ごとに、ふるえていた。
アルは、私の腕をつかんだまま、ゆっくりと、片ひざをついた。
座りこんだ私と、同じ高さに。
「……おかえりなさいませ、お嬢様」
灰色の瞳が、すぐそこにあった。
その瞳のふちが、少しだけ、赤かった。
──アルは、たぶん泣いてはいないけど。たぶん。
夢の中で思ったことを、思い出した。
たぶん、は、当たっていた。
「……ただいま、アル」
笑ったら、私のほうが、先に泣いてしまった。
アルは、何も言わずに、いつもの白いハンカチを差し出した。
端に、小さく公爵家の紋章。
いつも持っている、あのハンカチ。
◇
「──サラぁぁぁぁっ!!」
廊下の向こうから、地鳴りのような足音が近づいてきた。
お父様だった。
両手に、ハンカチを……五枚。三枚じゃなかった。五枚に増えていた。
「サラ、サラ、サラぁぁぁ、よかった、よかったぁぁぁ、一か月、一か月もぁぁぁ」
「お父様、おちついて……」
「お嬢様ーっ!!!」
その後ろから、赤いポニーテールが、まっすぐに飛んできた。
アルは、すっと立ち上がって、一歩後ろに下がった。もう、いつもの無表情だった。さっきの赤い瞳のふちは、もう、どこにもなかった。
……ずるい。
ライザが、床に座りこんだままの私に、ぶつかるように抱きついてきた。
「お嬢様、お嬢様、お嬢様ぁぁぁん! 毎日、毎日、お顔をふいて、髪をとかして、お嬢様の好きな花も、毎日かえて……うわぁぁぁん!!」
「うん、うん……ありがと、ライザ……」
お母様が、にこにこしながら、でも、だれよりもたくさんの涙をこぼして、そっと私の頭をなでた。
お兄様は、廊下のすみで、眼鏡を外して、ハンカチでごしごしと拭いていた。たぶん、拭いているのは、眼鏡じゃなかった。
そして、いちばん最後に、こつん、こつん、と、杖の音。
「……おかえり、サラ」
大叔母様は、それだけ言って、しわだらけの両手で、私の頬を包んだ。
「……あの人たちも、きっと、喜んでいるわ」
◇
それからの三日間。
ベッドの上から、ほとんど動かせてもらえない私のもとへ、お兄様が、この一か月のことを、少しずつ運んできてくれた。
「──オルドヴィンは、結界の外へ消えたままだ。行方は、まだわからない」
お兄様は、手帳をめくりながら言った。
「神殿は、陛下の命で、王家の監督のもとに置かれた。大神官の席は、今は空いている。……代わりに、若い神官たちをまとめて、神殿を立て直しているのは、ユリウス殿だ」
「ユリウス様が……」
「治癒の寄進は、すべて、やめさせたそうだ。金がなくても、神殿の治癒を受けられるように。……それと、神官たちに、『治癒だけでなく、薬と手当ても学べ』と命じたらしい」
……ユリウス様らしい。
「診療所は、イザベラ嬢が守ってくれている。北側だけじゃない。南にも、東にも、小さな診療所が、もう三つできた。薬は、魔術師団の塔が、毎日煮ている」
お兄様は、そこで、少しだけ、手帳から目を上げた。
「……イザベラ嬢は、毎日、おまえの寝顔を見に来ていた。『共犯者が、いつまでも寝ていてどうするの』と、毎日怒っていたぞ」
「……ふふ。イザベラ様らしい」
「……それと」
お兄様は、手帳のいちばん最後のページを、そっと開いた。
「父上が、屋敷の大広間に、一枚、肖像画を掛けた」
「肖像画?」
「──エドガー大叔父上のだ。五十年、物置の奥にしまわれていたのを、大叔母上が、ずっと守っていたらしい」
……おじいちゃんの。
「陛下から、公に、名誉を取り戻すというお言葉もいただいた。……『聖女サクラと、その騎士エドガーは、世界を捨てて逃げたのではない。この国を守り抜いた、英雄である』と」
胸の奥が、ぎゅうっと、熱くなった。
──おばあちゃん。おじいちゃん。
五十年かかったけど。
やっと、ちゃんと、帰ってこられたね。
◇
四日目の午後。
ようやく、芋畑の東屋まで、歩いて行けるようになった。
そこへ、銀色の髪が、ひとりでやってきた。
白い神官の衣。でも、金の刺繍は、もうどこにもなかった。
「……お目覚めになって、よかった。サラフィーナ嬢」
「ユリウス様。……神殿、大変だったでしょう?」
「ええ。……でも、初めて、自分の意志で、神殿のために働いている気がします」
ユリウス様は、東屋の入り口で、立ち止まったままだった。座ろうとは、しなかった。
「……今日は、ひとつだけ、申し上げに参りました」
紫の瞳が、まっすぐに私を見た。
「祖父の命令で申しこんだ求婚は、取り下げます。……初代聖女の定めによれば、聖女の結婚は、聖女自身が決めるもの。神殿は、口を出してはならない」
「……はい」
少しだけ、ほっとした。
そう思った私の顔を見て、ユリウス様が、ほんの少しだけ、口の端をゆるめた。
「……ですが」
そして、ゆっくりと、頭を下げた。
「私の気持ちまで、取り下げるつもりは、ありません。……それだけは、祖父の命令ではなく、自分で決めたことですので」
「……えっ」
顔を上げたユリウス様は、もう、いつもの無表情だった。
「ご安心を。お返事を求めているわけではありません。……ただ、知っておいていただきたかっただけです」
完璧な礼をして、ユリウス様は、芋畑の向こうへ、去っていった。
その背中を、ぼんやりと見送っていると。
東屋の柱のそばで、かちゃり、と、小さな音がした。
振り返ると、アルが、剣の柄に、そっと手をかけたところだった。
「……アル?」
「……手が、すべりました」
……剣の柄に手をかけるのに、手って、すべるものなのかな。




