第二部 縁側の夢
気づくと、私は、縁側に座っていた。
ふるい木の床。あたたかい日だまり。小さな庭のすみっこに、一本だけ、桜の木が立っている。
……ここ、知ってる。
小さいころ、おじいちゃんとおばあちゃんと暮らした家だ。おじいちゃんの白い髪が、お日さまに当たると、ちょっとだけピンク色に光った、あの縁側。
自分の髪をつまむ。桜色だった。服は、お屋敷で着ている寝間着のまま。
……だから、これは、夢だ。
「──おつかれさま、サラ」
隣で、声がした。
長い、白銀の髪。光の加減で、色の変わる瞳。制服じゃなくて、ゆったりとした白い服を着ている。
「……紬」
「今日は、『咲良』じゃなくて、『サラ』と呼ぶわね。……あなたは、もう、ちゃんと、あちらの子だから」
紬は、ふわりと笑った。
そして、縁側の上の、小さなお盆を、そっと私のほうへ押しやった。お盆の上には、湯のみがふたつ。それから、小さなお皿に、唐揚げが、ひとつ。
「……唐揚げ。なんで?」
「あなたの夢だもの。あなたが、いちばんほっとするものが、出てくるのよ」
「……縁側と、唐揚げが?」
「ええ」
紬は、ちょっとだけ、いたずらっぽく目を細めた。
「……それと、本当は、もうひとつあったみたいだけど。それは、さすがに夢には出てこないみたいね。……今も、あなたの部屋の扉の前に、立っているから」
「……えっ」
「ふふ。なんでもないわ」
◇
「……紬。結界は」
「大丈夫。ちゃんと、ふさがっているわ」
紬は、桜の木のその向こうの、青い空を見上げた。
「あなたと、あちらのみんなが、張り直してくれた。……あの子の光だけで張られた結界より、ずっと、丈夫にね」
「……よかった」
ふうっと、肩の力が抜けた。
「……でもね、サラ。ひとつだけ、あなたに、話しておかなきゃいけないことがあるの」
紬の声が、少しだけ、静かになった。
「──どうして、あの世界に、瘴気があるのか」
紬は、縁側の床に落ちた、桜の木の影を、そっと指でなぞった。
「この世のものには、何にでも、陰と陽があるの。昼と夜。光と影。あたたかいものと、冷たいもの。……どちらかだけでは、世界は、立っていられない」
「……うん」
「あの世界を作ったとき、私は、その影のほうを、うまく散らすことができなかった。……北の森の、さらにずっと北に。陰の気が、どうしてもたまってしまう場所が、できてしまったの」
紬の瞳が、少しだけ、暗い色に変わった。
「たまった陰の気が、あふれ出して、あの世界に流れこむ。それが、瘴気。その瘴気を吸って、生き物がゆがんだものが、魔物。……そして、もっとたくさん吸って、もっと大きくゆがんだものが」
「……魔竜」
「ええ」
紬は、うなずいた。
「結界は、その場所にかぶせた、蓋なの。蓋をしても、底にたまるものは、なくならない。……これからも、ずっと、それは続くわ」
「……ずっと」
「ずっとよ。……だから、本当は、あの世界の人たちが、みんなで守っていかなきゃいけなかった。ひとりの聖女が、ひとりで蓋を押さえつづけるんじゃなくて」
紬は、そこで、言葉を切った。
それから、ゆっくりと、私のほうへ向き直った。
そして、縁側の上で、両手をひざにそろえて、深々と、頭を下げた。
「──ごめんなさい。サラ」
「えっ……!?」
「ミコトにも。桜にも。そして、あなたにも。……私は、よその国の女の子に、この世界を、ひとりで背負わせてきた」
頭を下げたままの紬の声が、小さくふるえていた。
「聖女がいれば、大丈夫だと思っていた。その子が、この世界を好きになってくれさえすれば、と。……でも、それは、私の読みの、甘さだった。ひとりの女の子に、世界ごと背負わせて、それで全部うまくいくなんて、そんなはず、なかったのに」
紬の長い白銀の髪が、縁側の床に、さらりと流れた。
「桜が、世界よりもひとりを選ばなきゃいけなかったのも。あなたが、一か月も目を覚まさないほど、光を使い果たしたのも。……全部、私のせいよ」
……一か月。
「……紬。今、一か月って言った?」
「……ええ。あなたの体は、今も、公爵家のベッドで眠っているわ。あの夜から、もうすぐ、一か月になる」
「一か月!?」
思わず、縁側から立ち上がりそうになった。
一か月。お父様、絶対に、毎日ハンカチ三枚で泣いてる。ライザも。アルも……アルは、たぶん泣いてはいないけど。たぶん。
「……だから、ごめんなさい」
紬は、まだ、頭を上げていなかった。
◇
私は、しばらく、何も言えなかった。
縁側に、あたたかい風が吹いていた。桜の花びらが、ひとつ、紬の白銀の髪の上に、ふわりと落ちた。
「……紬。顔、上げて」
紬は、ゆっくりと、顔を上げた。
色の変わる瞳が、うるんでいた。神様なのに。中庭のベンチでひとりでお弁当を食べていた、あのときの転校生と、同じ顔だった。
「……背負わされたんじゃないよ」
私は、その瞳を、まっすぐに見て言った。
「私が、選んだの。紬に『あっちへ行って』って言われて、それでも、あっちで生きるって。……お父様も、お母様も、お兄様も、ライザも、アルも。大叔母様も、マークも、イザベラ様も。みんなのこと、私が、大好きになったの」
「……サラ」
「それにね。あの夜、私、ひとりじゃなかったよ」
重なった手。どこまでも続いていた、松明の火。色とりどりの、小さな光。
「これからも、ずっと続くなら。これからも、ずっと、みんなで守ればいいんだよね。……だって、もう、みんな、やり方を知ってるもん」
紬が、大きく目を見開いた。
「……それと、紬もだよ」
「……私も?」
「紬も、ひとりで背負わなくていいんだよ。神様だからって。……祈りは、届いてるんでしょう? 前に、そう言ってたもん。だったら、紬のところにも、みんなの『守りたい』は、ちゃんと届いてるはずだよ」
紬は、しばらく、何も言わなかった。
それから、そっと、自分の胸に手を当てた。
まるで、そこに何かがあるのを、確かめるみたいに。
「……ええ。……そうね。届いているわ。あの夜から、ずっと」
色の変わる瞳から、ひとつぶ、涙がこぼれた。
「……こんなに、たくさんの声が届くのは、あの世界を作ってから、初めてよ」
◇
「──ただし、サラ。気をつけて」
涙を拭った紬の声が、少しだけ、硬くなった。
「あの人のことよ。……桜の光の七割を、自分の中に取りこんだ。でも、あの光は、もともと、『守りたい』から生まれた光。それを、『自分のものにしたい』という気持ちで取りこんだら、どうなると思う?」
「……どうなるの?」
「陰と陽が、ぐちゃぐちゃになるの。……あの人は、今、北の、結界のその外側にいるわ。陰の気がたまる、あの場所に。そして、その奥には、押し戻されたばかりの、あの子がいる」
……魔竜。
「そこで、あの人が何をしようとしているのか。……私にも、まだ、見えないの」
紬の瞳が、北の空のような、暗い色にゆらいだ。
でも、すぐに、やわらかい色に戻った。
「──さあ、そろそろ、起きる時間よ」
「えっ、もう?」
「一か月も寝ていたのよ。これ以上寝ていたら、あなたのお父様のせいでハンカチが、王都からなくなってしまうわ」
「……ふふっ」
笑ってしまった。
紬も、ふわりと笑った。中庭のベンチで、初めて唐揚げを食べた日と、同じ顔で。
縁側の景色が、桜の花びらになって、さらさらとほどけていく。
最後に、紬の声が、いたずらっぽく響いた。
「──目を開けたら、いちばんに、扉の前を見てごらんなさい」




