第二部 閑話 つないだ手 (ライザ)
お嬢様が、目を覚まさない。
北の森から帰ってきて、今日で、十日。
朝、お部屋のカーテンを開ける。お嬢様のお顔を、お湯でしぼった布で、そっとふく。桜色の髪を、ゆっくりとくしでとかす。窓辺の花を、新しいのに替える。
お嬢様の好きな花は、わかっている。花屋さんのきれいな薔薇より、野原に咲いている、小さくて丈夫な花。あと、芋の花。芋の花は、花瓶にはちょっと飾りにくいけど。
「……お嬢様、今日はいいお天気ですよ」
返事はない。
でも、毎朝、話しかける。お嬢様が目を覚ましたときに、いちばんに「おはようございます」を言うのは、私だから。
……たぶん。
扉の外に、一日じゅう立っている人がいるので、ちょっと、あやしいけど。
◇
公爵家の侍女の仕事は、お嬢様のお世話だけじゃない。
お客様のお茶の支度。お屋敷じゅうの花の手入れ。奥様のお友達へのお返事の代筆。いろいろある。
お嬢様が眠っているあいだにも、公爵家には、たくさんのお客様が来た。お見舞いの貴族の奥方たち。北側の人たちから届く、野の花の束。
その日の午後も、奥様のお客様に、応接室でお茶をお出ししていた。
どこかの伯爵家の、きれいな令嬢がふたり。ひそひそと、でも楽しそうに、話している。
「……それにしても、セドリック殿下のあの夢中ぶり、ご覧になった?」
「ええ。北の森で、あんなに必死なお顔で。やっぱり、婚約者のサラフィーナ様のためなのよねぇ」
「お似合いよねぇ。王子様と、桜色の聖女様。絵本みたい」
……ちくっ。
紅茶を注いでいた手が、ほんの少しだけ、ぶれた。
あ、あぶない。こぼすところだった。
いつもなら、こんなこと、絶対にないのに。
「……失礼いたしました」
ちゃんと笑顔で、お辞儀をして、応接室を出た。
廊下に出てから、私は、自分の胸のあたりを、そっと押さえた。
……なんでだろう。
殿下とお嬢様がお似合いなのは、本当のことだ。お嬢様が幸せになるのは、私のいちばんの願いだ。
なのに。
どうして、今、ちくってしたんだろう。
◇
その夜。
お嬢様の寝台のそばの椅子で、縫い物をしながら、私は、北の森のことを思い出していた。
──手を、つないで!
お嬢様がそう叫んだとき、私の隣にいたのが、たまたま、殿下だった。
だから、何も考えずに、手を差し出した。「殿下も、どうぞ!」って。
殿下は、一瞬だけ、私の手を見つめて、それから、そっと握り返してくれた。
ふるえていた。殿下の指が。
王子様なのに。いつも、あんなに、よゆうで笑っている人なのに。
……あのとき、私、「あれ?」って思ったんだ。
なにが「あれ?」なのかは、わからなかったけど。
だって、すぐに結界の光が、ぶわぁってなって、それどころじゃなくなったから。
私は、針を止めて、自分の右手を見つめた。
殿下とつないでいたほうの、手。
……まだ、ちょっと、あたたかい気がする。十日もたってるのに。
そんなはず、ないのに。
◇
いろいろ、思い出してしまう。
診療所で、狼から私をかばって、背中を大けがした殿下。
あのとき、抱きこまれた腕の中は、すごくあたたかくて、すごく、心臓の音が速かった。たぶん、私のじゃなくて、殿下の。
薬を飲んでくださいって押しつけたら、やっぱりちょっと苦い顔をして、それでも全部飲んでくれた。
泣いてた。九つのあの日と、おんなじ顔で。
──芋を、踏ませたくなかったから、かな。
あれ、どういう意味だったんだろう。
香草茶を選んだときも。お嬢様に相談して、それから、厨房で、なんだかすごく時間がかかった。いちばんいい葉っぱを選んで、あっためて、よく眠れるように。手紙も、何度も書き直した。いつもなら、一回で書くのに。
──目が、少しだけ赤かったな。
お見舞いのお茶を届けてくれたルーカス様が、そう教えてくれた。私の手紙を読んだあと、殿下が、しばらく窓のほうを向いていらっしゃったって。
……やっぱり、どこかお加減が悪かったのかな。それとも。
わからないことばっかりだ。
◇
ふと、前に、お嬢様に聞かれたことを思い出した。
──ライザ。好きって、どういうの?
私は、そのとき、すぐに答えた。自信たっぷりに。
──一緒にいると、胸がぎゅってなる人です!
──その人のためなら、なんでもしたくなっちゃう人です!
…………。
針を持ったまま、動けなくなった。
一緒にいると、胸がぎゅってなる人。
その人のためなら、なんでもしたくなっちゃう人。
……いちばんいい葉っぱを選んで。手紙を何度も書き直して。
……つないだ手が、十日たっても、まだあたたかい気がして。
「……あれ?」
声に出して、つぶやいていた。
いやいやいや。
私は、ぶんぶんと、頭を振った。
だって、殿下は王子様だ。お嬢様の、婚約者だ。私は、厨房のマルタの娘で、お嬢様の侍女だ。
そんなこと、あるはずがない。
あっていいはずがない。
……ただ、恩返しをしたいだけだ。かばってもらったから。それだけ。
「……そう。そうに決まってます!」
小声で、自分に言い聞かせて、縫い物に戻る。
でも、針は、何度も、同じところを、行ったり来たりした。
◇
「……お嬢様。早く、起きてくださいね」
私は、眠っているお嬢様の手を、そっと握った。
「お嬢様に、聞いてほしいことが、ちょっとだけ、あるんです。……たぶん、たいしたことじゃないんですけど」
窓の外で、ふくろうが、ほうと鳴いた。
扉の向こうで、今夜も、あの人が立っている気配がした。
……アルさんも、お嬢様のことを考えると、胸がぎゅってなるのかな。
……なるんだろうな。あんなに、ずっと立ってるんだもん。
そう思ったら、なんだか、少しだけ、うらやましかった。




