第二部 重なる手
「──アル! 背中、見せて!」
「大したことはございません」
「大したことあるかどうかは、私が決めるの!」
砕けたステンドグラスのかけらが散らばる大聖堂の床で、私はアルの肩をつかんで、むりやり振り向かせた。
近衛騎士の制服の背中が、大きく裂けていた。その下の肌が、赤黒く、焼けたようにただれている。
「……どこが、大したことないのよ」
声が、ふるえた。
私は、その背中に手を当てようとした。
その手を、アルが、そっとつかんで止めた。
「……お嬢様の光は、今夜は、もう少しも無駄にできないはずです」
灰色の瞳が、まっすぐに私を見た。
「私の背中に使う光があるなら、あちらにお取りください」
アルが、砕けた窓の向こうを、あごでさした。
北の空。大きく裂けた、空の口。その奥で、赤く燃える何か。
「……ずるい」
「それは、以前もうかがいました」
「……アルが倒れたら、もう許してあげないからね」
「結構です。許していただくために、倒れないようにいたしますので」
……こんなときまで。
でも、つかまれた手は、あたたかかった。
「──サラ!」
お兄様が、駆けよってきた。その後ろに、イザベラ様と、ユリウス様。
「宝物庫に残っていた分と、おまえが引き止めた分。あわせて、もとの三割ほどだ」
「……三割」
「……だが、ゼロではない」
お兄様は、手帳も開かずに、そう言い切った。
「──馬車を用意させる。北の森へ、今すぐにだ」
王族の席から、セドリック殿下が、もう下りてきていた。その後ろで、国王陛下が、近衛騎士たちに短く命じている。
「近衛騎士団と魔術師団は、ローゼンベルク嬢を守り、北の森へ。……王都の守りは、警護隊に任せる」
「──はっ!!」
大聖堂の入り口で、トマスさんが、今日いちばんの大声で、びしっと胸に拳を当てていた。
今度は、誰も、その口をふさがなかった。
◇
北の森は、燃えているように見えた。
本当に燃えているのではない。裂けた空の奥の赤い光が、森じゅうを、不気味な色に照らしているのだ。
空気が、重い。鑑定の目で見るまでもなかった。森じゅうの木々のあいだに、どろりとした黒いもやが、川のように流れこんでいる。
「──右から三匹!」
「左もだ!」
魔物たちが、あちこちから飛び出してくる。狼。熊。見たこともない、大きな鳥。近衛騎士たちと、魔術師団の人たちが、馬車のまわりを囲んで、それをひとつずつ打ち払っていく。
その先頭で、アルが剣を振るっていた。
背中の制服が裂けたままで。一度も、よろけずに。
……倒れないようにするって、言ったから。
そして、馬車の後ろには。
「……どうして、みんな、ついてきちゃったの……」
馬車の窓から振り返って、私は、息をのんだ。
松明の火が、ずっと、ずっと続いていた。
北側の人たち。警護隊の制服の若い騎士たち。大聖堂の外廊にいた、王都の人たち。その中には、貴族の馬車も、いくつか混じっている。そのひとつの窓から、栗色の巻き髪が、ひらひらと手を振っていた。
「……ミレーユまで……」
「あの子は、貴族の奥方を、半分くらい引き連れてきたようね」
向かいの席で、大叔母様が、杖をひざに立てて、静かに笑った。
「……五十年前は、誰もついていかなかったわ。あの人は、兄上と、たった二人で、この森へ入っていった」
大叔母様は、馬車の窓の外の、松明の列を見つめていた。
「……今度は、ちがうのね」
◇
要石のある広場にたどり着いたとき。
空の裂け目は、もう、すぐ頭の上にあった。
その向こうに。
巨大な、紅い爪が見えた。
裂け目のふちを、外側から、ゆっくりと、こじ開けようとしている。そのたびに、空が、ぎし、ぎしと、きしむような音を立てる。
「……魔竜だ」
ギデオン様が、かすれた声でつぶやいた。
「五十年前、あの人が押し返した、あの……」
要石は、もう、桃色に光っていなかった。
真っ白だったはずの石が、灰色にくすんで、ひびが、網の目のように全体に走っている。そのひびのすきまから、黒いもやが、もうもうと、とめどなくあふれ出している。
その下に刻まれた、【さくら】の文字だけが、かろうじて、かすかに光っていた。
「──魔石を! 要石のまわりに!」
お兄様の声。マークとトマスさんと、近衛騎士たちが、馬車から魔石の箱を運び出して、要石のまわりに、円を描くように並べていく。
三割。
おばあちゃんの光の、たった三割。
これだけでは、足りない。おばあちゃんがひとりで張った結界を、そのままよみがえらせるには、とても。
でも。
──結界は、ひとりで張っちゃだめ。
──聖女の光は、種になるだけ。その種を育てるのは、みんなの「守りたい」って気持ち。
私は、振り返った。
「──みんな!」
広場に、森の入り口に、そのずっと後ろまで、松明を持った人たちが、ひしめき合っていた。
「手を、つないで! 隣の人と、その隣の人と。ずっと、ずっと、つないで! それで、守りたいもののことを、思い浮かべて!」
一瞬、しんとした。
それから。
「──じゃあ、私からよ」
大叔母様が、杖を捨てて、片手を差し出した。
その手を、もじゃもじゃの白い髪のおじいさんが、そっと握った。
「……五十年ぶりだね、ヒルダ。手をつなぐのは」
「黙って握りなさい。泣き虫」
ギデオン様のもう片方の手を、マークのおばあさんが。その手を、マークが。マークの手を、トマスさんが。トマスさんの大きな手を、警護隊の仲間たちが。北側の人たちが。王都の人たちが。貴族の奥方たちが。
その列の、あるところで。
「……殿下も、どうぞ!」
ライザが、なんのためらいもなく、片手を差し出していた。
セドリック殿下が、その手を、一瞬だけ見つめた。
それから、かすかに震える指で、そっと、握り返した。
「……あれ?」
ライザが、つないだ自分の手を見下ろして、小さく首をかしげた。でも、すぐに前を向いて、ぎゅっと目をつぶった。
列の、また別のところでは。
灰色の服の、銀色の髪の令嬢が、隣に立つ巡礼の服の人に、無言で片手を差し出していた。
その人はただ、その手を、しっかりと握った。
そのもう片方の手を、もうひとりの銀色の髪が。
人の手の列が、広場を、森を、松明の火の、ずっと先まで、つながっていく。
そして、その列の、いちばん端の手を。
大きな、傷だらけの手が、私のもとへと、つないできた。
アルだった。
「……お嬢様」
アルのもう片方の手は、列につながっている。
そして、こちらの手は。
要石に当てた私の両手の上に、そっと、重ねられた。
「──手を、離しません。絶対に」
──手を離すな。
五十年前の、あの声と、重なった。
◇
──おねがい。
私は、目を閉じた。
要石の中へ。その奥へ。まわりに並べた魔石の、おばあちゃんの光へ。
──もう一度だけ、力を貸して。
──今度は、ひとりじゃないから。
手のひらが、あたたかくなる。
私の光。そして、その上に重ねられた、アルの手の、あたたかさ。
その向こうから。
小さな、小さな光が、ひとつ、またひとつと、流れこんでくるのがわかった。
銀色の、いまにも消えそうな光。それは、何年も、何年も、ひとりで祈ってきた人の光だった。
淡い緑の、のんびりとゆらゆら揺れる、少しよれよれの、でもあたたかい光。五十年、あの日を忘れなかった人の光。
赤い、元気いっぱいの光。いつも、私のいるところにいてくれる人の光。
光なんて持っていないはずの人たちからも。北側のおばあさんからも。警護隊の若い騎士たちからも。名前も知らない、王都の人たちからも。
あたたかい、小さな、たくさんの、「守りたい」が。
──ああ。
これが、結界だ。
おばあちゃんが知らなかった、本当の。
ぱあっと、光が、弾けた。
要石から、まわりの魔石から、手をつないだ人たちの列の、ずっと先から。
桃色だけじゃない。銀色も、緑も、赤も、名前のない、たくさんの色が混ざり合った光が、大きな大きな波になって、空へと昇っていく。
裂けた空のふちに、光が、ひたりと張りつく。
こじ開けようとしていた紅い爪が、びくりと、止まった。
──グォォォォォォッ……!!
地面が揺れるほどの咆哮。
でも、光は、引かなかった。
みんなの光が、裂け目を、外側から、内側から、ゆっくりと縫い合わせていく。紅い爪が、少しずつ、少しずつ、向こう側へと押し戻されていく。
そして。
裂け目が、細い、細い、一本の線になったとき。
北の空が、もう一度、やさしい色とりどりの光に、包まれた。
◇
──ふらり。
体が、後ろに傾いた。
もう、力は、ひとつぶも残っていなかった。指先まで、空っぽだった。
倒れる前に、あたたかい腕が、私を抱きとめた。
「──サラ!」
あ。
また、呼んだ。
北の森で、要石に触れて倒れたときと同じ声で。丁寧な言葉を、ぜんぶ忘れた声で。
「……今度は、記憶にございません、は、なしだよ……」
笑おうとしたけど、うまく笑えたかどうか、わからない。
アルの顔が、すぐそこにあった。灰色の瞳が、ひどくゆれていた。
どこか遠くで、やさしい声がした気がした。
少しかすれていて、なつかしい声。
──よく、がんばったね。咲良。
……おばあちゃん。
それを確かめる前に、私の意識は、あたたかい腕の中で、ゆっくりと、深いところへ、沈んでいった。




