第二部 五十年目の証言
「──お待ちなさい」
その声は、大聖堂の外廊から、まっすぐに響いた。
こつん、と、石の床を杖が叩く音。
柵の向こうの人波が、すっと左右に分かれる。そのあいだを、小柄な、真っ白な髪の老婦人が、ゆっくりと歩いてきた。
大叔母様だった。
「私は、ローゼンベルク公爵家のヒルダ。……五十年前、聖女とともに姿を消したとされる騎士エドガーの、妹です」
ざわ、と、大聖堂が揺れた。
祭壇の前のオルドヴィン様は、両手を広げたまま、振り向きもしなかった。桃色の光の糸は、今も、その手の中へ吸いこまれつづけている。
「五十年、黙ってきました。……でも、今夜こそ、すべて申し上げます」
大叔母様は、杖をついていないほうの手で、古びた革表紙の日記を、高く掲げた。
「これは、五十年前の、若き日のオルドヴィン神官の日記。……結界が張られた、その日のところを、読み上げます」
大叔母様の声は、少しも震えていなかった。
「『本日、聖女の護衛として、神殿騎士団を北の森へ向かわせよとの命を受ける。私は、騎士団を、森の入り口で止めた。あの女には、あの騎士がいれば十分だろう。あの女が選んだのは、あの騎士なのだから』」
大聖堂が、しんと、静まり返った。
「……その日、北の森の広場には、聖女を守る者は、兄上ひとりしかいませんでした。兄上は、結界を張るあの人を、たったひとりで、魔竜から庇いました。……そして、救いようのない傷を負いました」
大叔母様は、日記をゆっくりと下ろした。
「聖女は、逃げてなどいません。結界を張ったのは、神殿ではありません。……あの人と、兄上です」
「──僕が、証言しよう」
大叔母様の隣に、もじゃもじゃの白い髪が並んだ。
「王宮魔術師団、団長ギデオン。五十年前、見習いとして北の森にいた。あの日、空を桃色に染めた光は、神殿の術式のものではない。……それは、今、あの祭壇の下で光っている魔石と、完全に同じ癖をしている」
「あたしゃあ、子どもを抱いて、あの光を見たよ」
マークのおばあさんが、曲がった腰を伸ばして、声を上げた。
「うちのじいさんもだ!」
「わしも見たぞ!」
「うちの子を襲った狼は、神殿の紋のついた石に引かれて来たんだ!」
声が、ひとつ、またひとつと重なっていく。外廊から、貴族の席へ。貴族の席のあちこちでも、ひそひそと声が上がり始めた。ミレーユが、扇の陰で、うっすらと微笑んでいた。
「……たわごとを」
オルドヴィン様は、広げた両手を下ろさないまま、穏やかに言った。
「それは、誰かが私の名を騙って書いた、偽りの書だ。五十年前のことなど、今さら、誰に……」
「──それは、祖父の字です」
祭壇の前から、声がした。
十二人の祈り手の、ひとり。
銀色の髪が、ゆっくりと、立ち上がった。
ユリウス様だった。
祈りの円が、そこだけ、ぷつりと切れた。桃色の糸の何本かが、行き場を失って、ゆらゆらと宿り先を探している。
「私は、子どものころから、祖父の字で書かれた祈りの言葉で、字を習いました。……見間違えるはずがありません。その日記を、祖父の書斎から持ち出したのは、私です」
「……ユリウス」
「──私も、証言しますわ」
大聖堂の側廊の扉が、大きく開いた。
灰色の服の、銀色の髪の令嬢。その後ろに、巡礼の服のお兄様と、神官の衣のマークと、空っぽの壺を抱えたトマスさん。
──宝物庫に、間に合ったんだ。
お兄様が、私のほうを見て、小さくうなずいた。残りの魔石は、押さえた、と。
イザベラ様は、まっすぐに兄のところまで歩いていって、その隣に並んだ。
「……お祖父様。私たちは、もう、あなたのためには祈りません」
二つの銀色の髪が、並んで立っていた。
兄も、妹も。その背筋は、まっすぐに伸びていた。
◇
「──大祈祷を、止めよ」
王族の席で、国王陛下が、立ち上がっていた。
この国でいちばんえらい人の声が、大聖堂の天井まで、まっすぐに届いた。
「大神官オルドヴィン。王の名において命ずる。……今すぐ、その手を下ろせ」
大聖堂じゅうが、息をのんだ。
何十年も、神殿に頭を下げつづけてきた王が。
初めて、神殿に向かって、命じた。
……それでも。
オルドヴィン様は、手を下ろさなかった。
「……ふふ。ふふふふ。……どうやら、もう、穏やかには終われないようだ」
その笑い声を聞いた瞬間、背中に、ぶわっと鳥肌が立った。
穏やかな声じゃなかった。五十年分の何かが、底からあふれ出したような、ひどく歪んだ声。
祭壇の下の魔石の山が、いっせいに、まぶしく光った。
桃色の糸が、糸じゃなくなった。川のような、濁流のような光が、十二人の祈り手を弾き飛ばして、オルドヴィン様の両手の中へ、一気になだれこんでいく。
──今だ。
「アル!」
「──お嬢様。私の後ろから」
フードをはねのけて、私は、王族の席から飛び出した。桜色の髪が、大聖堂の光の中で、ふわりと広がる。
アルが、剣を抜いて、私の一歩前を駆ける。神殿騎士たちが、私たちの前に立ちふさがる。その剣を、アルの剣が、ひとつ、またひとつと、弾き飛ばしていく。
祭壇の前。魔石の山。
私は、その山に、両手を突っこんだ。
──おばあちゃん。
──帰ってきて。
大聖堂で、杯の魔石から光を呼び戻したときと同じように。
桃色の光が、私の手に、ふるりと応えた。
濁流のような光の、その一部が、ゆるやかに、こちらへと流れを変える。
いける。
そう思った瞬間だった。
「──やはり、来たかね」
すぐ頭の上で、声がした。
見上げる。
オルドヴィン様が、私を見下ろしていた。
その目が、光っていた。
桃色に。
おばあちゃんの光と同じ色。なのに、その奥に、どろりとした、黒いものが、うずを巻いている。
「あの女と、同じ目だ。……五十年前も、あの女は、そういう目で私を見た」
オルドヴィン様の、しわだらけの手が、ゆっくりと、私に向かって伸ばされた。
「だが、もう遅い」
その手のひらから、光が、弾けた。
桃色と、黒とが、ぐちゃぐちゃに混ざり合った、種類のわからない光。
よけられない。
そう思った私の前に、黒い背中が、飛びこんできた。
「──っ!」
アルだった。
私を胸に抱きこむようにして、その背中で、光を受けた。
どんっ、と、ものすごい衝撃。
二人いっしょに、石の床を、何度も転がった。
──光が、引きずり戻されていく。
こちらへ流れを変えかけていた桃色の光が、また、あの老人の方へと。
「……ああ」
祭壇の前で、オルドヴィン様が、うっとりと天を仰いでいた。
その白い髪が、根元から、ゆっくりと、桃色に染まっていく。
「……これが。これが、あの女の光か」
魔石の山の光が、ひとつ、またひとつと、消えていく。
半分。
それ以上。
──だめ。
私は、アルの腕の中から、必死に手を伸ばした。まだ光っている、魔石の山の、いちばんはしっこに。
指先が、ふれた。
──おばあちゃん。そっちに行かないで。
ふれた魔石から、光の流れが、ぴたりと止まった。その隣も。さらにその隣も。
ぜんぶは、届かなかった。
でも、山の、ほんの一角だけが、引きずられるのをやめて、私の手のまわりで、ちいさく、あたたかく光っていた。
◇
ぱりん、と、頭の上で音がした。
大聖堂の、いちばん大きなステンドグラスが、内側から、粉々に砕け散っていた。
光って落ちてくる、色とりどりのかけらの中。
桃色と黒の光をまとった人影が、宙に、浮いていた。
桃色に染まった髪。桃色に光る目。金の冠は、もう、どこかへ落ちていた。
「──この力は、もう、私のものだ」
その声は、もう、人の声ではないように、大聖堂の天井じゅうに反響していた。
「あの女が、あの騎士のために捨てた、この世界ごと。……今度は、私が、もらい受ける」
人影は、砕けた窓の向こうへ、すうっと吸いこまれるように、消えていった。
北の空へ。
大聖堂に、影も形もなくなったそのあと。
私は、砕けた窓の向こうの、北の空を見た。
あの黒いひびが。
もう、ひびではなかった。
空を左右に引き裂くように、大きく、口を開けていた。
その奥で、何かが、赤く、燃えていた。




