第二部 満月の夜、それぞれの持ち場
満月は、いやに大きかった。
王都いちばん高い丘の上。白い神殿の屋根のすぐうしろに、まるで神殿に寄りそうように、まん丸な月が浮かんでいる。
そして、その北の空には、あの黒いひび。
月の光に照らされて、いつもより、ずっとはっきりと見えた。
「──では、最後にもう一度、持ち場を確かめる」
公爵家の裏庭。お兄様が、手帳を開いた。
「第一の組。私とマークとトマス殿。祈りの塔でイザベラ嬢を助け出し、そのまま地下の宝物庫へ。祈り手にされたユリウス殿を取り戻し、宝物庫に残った魔石を押さえる」
「第二の組。サラとアルフレッド。殿下のお供として、陛下とともに大聖堂へ。大祈祷が始まったら、力の流れを止める」
「第三の組。大叔母上、ギデオン殿、ミレーユ嬢。北側の人々とともに大聖堂の外廊へ。王と民の前で、五十年前の本当のことを、証言する」
お兄様は、手帳を閉じた。
「……以上だ。質問は」
「はいっ!」
トマスさんが、元気よく手を挙げた。
「自分は、何をしゃべってはいけないのでしょうか!」
「……何もだ」
「はっ! 承知しました!!」
「その声をやめろ!」
マークが、頭を抱えていた。
◇
「……お嬢様。フードを、もう少し深く」
王宮から神殿へ向かう、国王陛下の一行。そのいちばん後ろの、お供の列のなかで、アルが小声で言った。
今夜の私は、殿下のお供の、名もない侍女だ。地味な灰色の外套に、深いフード。アルは、王宮の近衛騎士の制服を借りている。
「……今度は、はみ出してないでしょ?」
「右の耳のうしろに、一房」
「うそっ……!」
あわててフードの中に押しこむと、アルが、ほんの少しだけ、息を吐いた。
「……今度は、剣を下げた護衛も、王宮の制服を着ておりますので。少しはましかと」
「……気にしてたんだ」
「多少は」
ふふっと、笑いそうになって、あわてて口をつぐんだ。
前を歩くセドリック殿下が、振り向かずに、小さく言った。
「……そこの二人。今夜は、お供らしくしていてくれるかな」
いつもより、ずっと低い声。
殿下のすぐ前を歩く国王陛下は、まっすぐに前を見たまま、一度も振り返らなかった。でも、王宮を出るとき、殿下から、日記のことも、帳簿のことも、全部聞いたはずだ。
──父上が、何十年も頭を下げつづけてきたのは、そのせいだ。
その背中は、何も言わなかった。でも、まっすぐ神殿へ向かうその足取りには、迷いがひとつもなかった。
◇
──同じころ。神殿の裏手では。
「──し、神官様っ!?」
あとで聞いた話では、そのとき、裏門の手前の暗がりで、白い神官の衣を着た若い男がすっと現れたのを見て、トマスさんは、本物の神官に見つかったと思いこんだらしい。
「じ、自分たちは、あやしい者ではありません! ただの、巡礼の、そのっ……!」
「……兄貴。俺だよ」
「……………………マーク!? いつの間に神官に!?」
「ばっ……!」
夜の坂道に響きわたったその大声に、お兄様とマークが、両側から同時に、トマスさんの口をふさいだそうだ。
「……兄貴。何もしゃべらないって、さっき約束したよな?」
「もごもご……もごっ……!」
「うなずくだけでいい」
トマスさんは、口をふさがれたまま、ものすごい勢いでうなずいた。
若い神官に化けたマークは、下働きの少年のときとは、まるで別人だった。背筋をすっと伸ばして、あごを引いて、歩き方まで、ゆったりとした神官のものになっている。
「……そちらの二人は、大祈祷のために北の秘境から参った、巡礼の者だ。通せ」
裏門の見張りの神殿騎士は、何の疑いもなく、さっと道をあけた。
巡礼の者の服を着たお兄様とトマスさんは、空っぽの祈りの壺を抱えて、マークの後ろを、しずしずとついていった。
──お兄様は、一度も、眼鏡を拭かなかったそうだ。
◇
(祈りの塔のてっぺん ──イザベラ)
月の光が、窓の格子のあいだから、細く床に落ちていた。
私は、その光の中に立っていた。座ってなどいられなかった。今夜がどんな夜なのか、知っているから。
三日前、食事の盆の裏に書いた字を思い出す。見回りの時間。宝物庫への道。……そして、たった一行。
『今度の段取りも、あなたに任せる』
書いてから、ひどく後悔した。任せる、だなんて。お祖父様にさえ一度も言ったことのない言葉を、よりにもよって、あの杜撰な──いいえ。杜撰ではなかった人に。
がちゃり、と鍵が回った。
振り返らなかった。振り返ったら、自分がどんな顔をしてしまうのか、わからなかったから。
「……遅いわ」
「……段取りどおりだ。むしろ、二分早い」
低い声。知っている声。
……二分。この人はきっと、本当に二分を数えていた。
ゆっくりと振り返る。
巡礼の者の、地味な灰色の服。けれど背筋はまっすぐで、肩ひとつ落ちていない。その少し後ろで、神官の衣を着たそばかすの少年が、鍵を手に、やれやれという顔をしていた。
眼鏡は、夜露で白く曇ったままだった。一度も拭いていない。あの人が。
笑いそうになって、口元をきゅっと引き結んだ。
「……似合わないわね。背筋が伸びすぎているもの」
「……それは、もう言われた」
少しだけ、むっとした声。
その人は、一歩だけ部屋の中に踏みこんで、そこで止まった。
北の森でも、公爵家の応接室でも、そうだった。一歩だけ近づいて、そこで止まる。上着をかけて、振り返らずに歩いていく。
……ずるい人。
「……無事で、よかった」
低い、まっすぐな声だった。
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。痛いのに、あたたかかった。
答えようとして、言葉が出てこなかった。だから、ただ小さくうなずいた。
「……ええ」
それだけ言うのが、精いっぱいだった。
……いけない。今夜は、それどころではないのに。
私は顔を上げて、いつもの声を取り戻した。
「──兄様は、もう大聖堂の、祈り手の席に連れていかれたわ。宝物庫の魔石も、半分以上が、もう祭壇の下に運ばれている。……予定より、ずっと早いの」
その人の顔から、すうっと血の気が引くのが見えた。
「……残りは?」
「まだ宝物庫にあるわ。……案内する。子どものころ、兄様といっしょに、地下の抜け道は全部走り回ったもの」
私は、その人の横をすっと通り過ぎて、扉に手をかけた。
すれ違う一瞬、ふわりと、夜露と、古い紙と、インクのにおいがした。この人のにおいだ、と思った。
「……今度の段取りは、あなたに任せたんだもの。最後まで、ちゃんとついてきて」
「……当然だ」
振り返らなくても、わかった。
その声が、ほんの少しだけ、笑っていたことが。
◇
大聖堂は、人であふれていた。
貴族たちの席。王族の席。そして、外廊の柵の向こうに、いつかの審問の日よりもずっとたくさんの、王都の人たち。
その先頭に、杖をついた大叔母様と、もじゃもじゃの白い髪のギデオン様が見えた。その後ろには、マークのおばあさんと、北側の年寄りたち。少し離れたところでは、ミレーユが、貴族の奥方たちに囲まれて、ふんわりと扇を使っている。
……みんな、いる。
王族の席の、いちばん後ろ。お供の列にまぎれて、私は、そっと祭壇を見た。
祭壇の下に、何かが、山のように積まれていた。
紫色の石。何百、いや、何千も。
鑑定の目で見るまでもなかった。その山全体が、ぼうっと、桃色に光っていた。
……おばあちゃんの、光。
そして、祭壇の前に、白い衣の神官が十二人、円を描くようにひざまずいていた。祈り手だ。
そのひとりに、銀色の髪があった。
「……ユリウス様」
紫の瞳は、まっすぐ前を見ていた。でも、その顔は、紙のように白かった。組んだ両手の指が、白くなるほど、きつく握りしめられている。
そのとき。
大聖堂のいちばん奥の扉が、ゆっくりと開いた。
金と白の法衣。いつもより、ずっと豪華な。頭には、羽を広げた小鳥の形の、金の冠。
オルドヴィン様が、穏やかな笑顔で、祭壇へと歩いてくる。
王族の席の前で立ち止まると、国王陛下に、深々と頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました、陛下。……今夜、女神の恵みが、ついに、この国に満ちる瞬間を、ぜひご覧ください」
陛下は、何も答えなかった。
オルドヴィン様は、気にした様子もなく、穏やかに微笑んだまま、祭壇の前に立った。
そして、両手を、ゆっくりと広げた。
「──これより、大祈祷を執り行う」
十二人の祈り手が、いっせいに、祈りの言葉をとなえ始めた。
祭壇の下の魔石の山から、桃色の光が、糸になって、ゆらゆらと立ちのぼる。
一本。十本。百本。
そのすべてが、祈り手たちのあいだを通り抜けて、たったひとりの老人の、広げた両手の中へと、吸いこまれていく。
まだだ。
まだ、動いてはだめ。
お兄様たちが、宝物庫にたどり着くまで。大叔母様たちが、証言を始めるまで。
そう、自分に言い聞かせて、フードの中で、ぎゅっと唇をかんだ。
そのとき。
ステンドグラスの向こうで、何かが、きしりと、小さな音を立てた気がした。
北の空。
月の光に照らされた、あの黒いひびが。
まっすぐに、もう一本、延びた。




