第二部 閑話 塔の上の共犯者 (イザベラ)
祖父の書斎は、子どものころから、いつも古い紙と、香油のにおいがした。
あの夜も、そうだった。
兄様が、棚のいちばん奥から、革表紙の古い日記を取り出した。その手が、少しだけ震えていたのを、私は見なかったふりをした。
そのときだった。
廊下の向こうから、足音が聞こえた。
見回りの時間ではなかった。子どものころから知っている、あの時間では。
──変えられている。
そうわかった瞬間、私は、兄様の手から日記をひったくっていた。
「──イザベラ!?」
「兄様は、ここにいて。……お祖父様の話を、できるだけ長く」
書斎の奥の、小さな洗い場。その床に、石の格子をはめた、排水の穴がある。子どものころ、兄様と紙の船を流して遊んだ。その水が、神殿の外の溝につながっていることも、そのとき知った。
私は、自分のショールで日記をぐるぐると包んだ。その前に、お祖父様の机にあった油紙で、何重にも。
紙切れに、字を書く。手が震えて、うまく書けない。
──合図は無理。見回りの時間が、変わっていた。日記だけ、ここから流します。
そこまで書いて、一瞬だけ、ペンが止まった。
裏門の前で、あの人が待っている。合図の灯りが上がらないことを、自分のせいだと思うだろう。あの人は、そういう人だ。
それだけは、いやだった。
──あなたの段取りは、杜撰じゃなかったわ。
それだけ書き足して、紙切れをショールの端に結びつけて、格子のすきまに押しこんだ。
水の音が、小さく、ちゃぷんと鳴った。
書斎の扉が開く音がしたのは、その、すぐあとだった。
◇
「……おまえは、昔から、見回りの時間をよく知っていたからね」
お祖父様は、穏やかに微笑んでいた。
「だから、変えておいたよ。……かわいい孫たちが、危ない真似をしないように」
その声を、私は、生まれて初めて、怖いと思った。
小さいころから、ずっと、この声で褒められ、この声で叱られてきた。祈りが足りない。力が弱い。聖女候補なのに。──それでも、この人は、私のお祖父様だと思っていた。
「……お祖父様。ここで、調べものをしていたのは、私です。兄様は、私を探しに来ただけです」
「……ふふ。そうかい」
お祖父様は、兄様を見た。
兄様が、一歩前に出た。
「……いえ。ここに入ったのは、私の意志です。妹は、何も知りません」
……兄様。
子どものころから、そうだった。なにかを割ったときも、書庫の本を汚したときも。いつも、先に前に出て、罰を引き受けようとする。無表情なままで。
お祖父様は、しばらく、私たちを交互に見ていた。
「……どちらでもよいよ。どちらも、役に立ってもらうからね」
◇
祈りの塔のてっぺんの部屋は、二度目だった。
一度目は、北の森のあと。あのときは、まだ、怖くはなかった。罰を受けても、あの子を守れたなら、それでいいと思えた。
今度は、ちがう。
兄様がどこへ連れていかれたのか、わからない。
排水の穴に流した日記が、本当に、あの人の手に届いたのかも、わからない。
窓の格子の向こうに、王都が小さく見える。北側の、診療所のあたり。公爵家の屋敷のあたり。
私は、そのどちらも、見ないようにした。
見たら、泣いてしまいそうだったから。
◇
お祖父様は、一度だけ、塔に上がってきた。
「──イザベラ。満月の夜の大祈祷が終われば、おまえはもう、祈らなくてよくなる」
穏やかな声。やさしい声。
「聖女の力は、すべて、この祖父がもらい受ける。弱いと責められることも、もうない。……うれしいだろう?」
小さいころの私なら、うなずいていたかもしれない。
毎日、毎日、祈っても祈っても、光は、ちょっとしか出なかった。井戸ひとつ浄化するのに、一晩かかった。「どうして私じゃないの」と、月明かりの井戸で、泣いた夜もあった。
でも。
──イザベラ様の光も、ちゃんと混ざってたよ。
あの夜、あの子は、そう言った。私の手に、自分の手を重ねて。
あの日から、私の祈りは、「弱い」ものじゃなくなった。
「……いいえ、お祖父様」
私は、お祖父様の目を、まっすぐに見返した。
「私は、これからも祈ります。……ただし、あなたのためにではなく」
お祖父様の微笑みは、少しも崩れなかった。
「……そうかい。残念だね」
それだけ言って、お祖父様は、階段を下りていった。
扉に鍵がかかる音を聞いてから、私は、ようやく、自分のひざが震えていることに気づいた。
◇
食事を運んでくる少年が、変わったのは、二日後のことだった。
うつむきがちで、煤だらけの、そばかすの少年。
盆を受け取ろうとした私の耳元で、その少年が、ほんの小さな声で、ささやいた。
「──段取り屋の兄ちゃんからだ」
……。
息が、できた。
何日ぶりかに。屋根の下の、この狭い部屋で。
この少年は、知っている。北の森で、あの人の隣にいた。
ということは。
日記は、届いたんだ。
あの人は、まだ、あきらめていないんだ。
口元を、ぎゅっと引き結ぶ。泣くのは、あとだ。
「……食べるあいだ、そこにいて。盆を返すときに、渡すものがあるわ」
少年は、何も言わずに、扉のそばにしゃがみこんだ。
私は、食事を口に運びながら、盆の裏に、小さな字で、書きはじめた。
塔の見回りの時間。宝物庫への道。地下の抜け道。子どものころ、兄様といっしょに走り回った、全部を。
それから、別の紙切れを、一枚だけ。
何を書こうか、ずいぶん迷った。
無事よ、と書こうか。ありがとう、と書こうか。会いたい、と。
……そんなこと、書けるはずがない。
結局、たった一行だけ、書いた。
『満月の夜、待っているわ。──今度の段取りも、あなたに任せる』
書いてから、頬が熱くなった。
こんな一行を読んだら、あの人は、どんな顔をするだろう。眼鏡を押し上げて、きっと、何でもない顔をして。……それから、手帳を、ものすごい勢いで埋めはじめるのだ。
でも、紙切れを、書き直しはしなかった。
それが、私の、本当の気持ちだったから。
◇
満月まで、あと三日。
夜、窓の格子のあいだから、太っていく月を見上げる。
もう、王都の北側を見ても、泣きそうにはならなかった。
公爵家の屋敷のあたりも。
あのあたりで、今ごろ、あの人は、細かすぎる字で、手帳を埋めているだろうか。
眼鏡を押し上げて。眠らずに。
……そう思ったら、口元が、勝手にゆるんだ。
私は、月の光の中に、まっすぐに立った。
背筋を伸ばして。いつでも、あの扉が開いてもいいように。
──遅いわ、と、言ってやるために。




