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ゲームの中のお嬢様に転生したら、嫌味しか言わない護衛騎士が、十二年わたしだけを見ていたらしい  作者: 八重


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第二部 閑話 塔の上の共犯者 (イザベラ)

 祖父の書斎は、子どものころから、いつも古い紙と、香油のにおいがした。

 あの夜も、そうだった。

 兄様が、棚のいちばん奥から、革表紙の古い日記を取り出した。その手が、少しだけ震えていたのを、私は見なかったふりをした。

 そのときだった。

 廊下の向こうから、足音が聞こえた。

 見回りの時間ではなかった。子どものころから知っている、あの時間では。

 ──変えられている。

 そうわかった瞬間、私は、兄様の手から日記をひったくっていた。

「──イザベラ!?」

「兄様は、ここにいて。……お祖父様の話を、できるだけ長く」

 書斎の奥の、小さな洗い場。その床に、石の格子をはめた、排水の穴がある。子どものころ、兄様と紙の船を流して遊んだ。その水が、神殿の外の溝につながっていることも、そのとき知った。

 私は、自分のショールで日記をぐるぐると包んだ。その前に、お祖父様の机にあった油紙で、何重にも。

 紙切れに、字を書く。手が震えて、うまく書けない。

 ──合図は無理。見回りの時間が、変わっていた。日記だけ、ここから流します。

 そこまで書いて、一瞬だけ、ペンが止まった。

 裏門の前で、あの人が待っている。合図の灯りが上がらないことを、自分のせいだと思うだろう。あの人は、そういう人だ。

 それだけは、いやだった。

 ──あなたの段取りは、杜撰じゃなかったわ。

 それだけ書き足して、紙切れをショールの端に結びつけて、格子のすきまに押しこんだ。

 水の音が、小さく、ちゃぷんと鳴った。

 書斎の扉が開く音がしたのは、その、すぐあとだった。

◇

「……おまえは、昔から、見回りの時間をよく知っていたからね」

 お祖父様は、穏やかに微笑んでいた。

「だから、変えておいたよ。……かわいい孫たちが、危ない真似をしないように」

 その声を、私は、生まれて初めて、怖いと思った。

 小さいころから、ずっと、この声で褒められ、この声で叱られてきた。祈りが足りない。力が弱い。聖女候補なのに。──それでも、この人は、私のお祖父様だと思っていた。

「……お祖父様。ここで、調べものをしていたのは、私です。兄様は、私を探しに来ただけです」

「……ふふ。そうかい」

 お祖父様は、兄様を見た。

 兄様が、一歩前に出た。

「……いえ。ここに入ったのは、私の意志です。妹は、何も知りません」

 ……兄様。

 子どものころから、そうだった。なにかを割ったときも、書庫の本を汚したときも。いつも、先に前に出て、罰を引き受けようとする。無表情なままで。

 お祖父様は、しばらく、私たちを交互に見ていた。

「……どちらでもよいよ。どちらも、役に立ってもらうからね」

◇

 祈りの塔のてっぺんの部屋は、二度目だった。

 一度目は、北の森のあと。あのときは、まだ、怖くはなかった。罰を受けても、あの子を守れたなら、それでいいと思えた。

 今度は、ちがう。

 兄様がどこへ連れていかれたのか、わからない。

 排水の穴に流した日記が、本当に、あの人の手に届いたのかも、わからない。

 窓の格子の向こうに、王都が小さく見える。北側の、診療所のあたり。公爵家の屋敷のあたり。

 私は、そのどちらも、見ないようにした。

 見たら、泣いてしまいそうだったから。

◇

 お祖父様は、一度だけ、塔に上がってきた。

「──イザベラ。満月の夜の大祈祷が終われば、おまえはもう、祈らなくてよくなる」

 穏やかな声。やさしい声。

「聖女の力は、すべて、この祖父がもらい受ける。弱いと責められることも、もうない。……うれしいだろう?」

 小さいころの私なら、うなずいていたかもしれない。

 毎日、毎日、祈っても祈っても、光は、ちょっとしか出なかった。井戸ひとつ浄化するのに、一晩かかった。「どうして私じゃないの」と、月明かりの井戸で、泣いた夜もあった。

 でも。

 ──イザベラ様の光も、ちゃんと混ざってたよ。

 あの夜、あの子は、そう言った。私の手に、自分の手を重ねて。

 あの日から、私の祈りは、「弱い」ものじゃなくなった。

「……いいえ、お祖父様」

 私は、お祖父様の目を、まっすぐに見返した。

「私は、これからも祈ります。……ただし、あなたのためにではなく」

 お祖父様の微笑みは、少しも崩れなかった。

「……そうかい。残念だね」

 それだけ言って、お祖父様は、階段を下りていった。

 扉に鍵がかかる音を聞いてから、私は、ようやく、自分のひざが震えていることに気づいた。

◇

 食事を運んでくる少年が、変わったのは、二日後のことだった。

 うつむきがちで、煤だらけの、そばかすの少年。

 盆を受け取ろうとした私の耳元で、その少年が、ほんの小さな声で、ささやいた。

「──段取り屋の兄ちゃんからだ」

 ……。

 息が、できた。

 何日ぶりかに。屋根の下の、この狭い部屋で。

 この少年は、知っている。北の森で、あの人の隣にいた。

 ということは。

 日記は、届いたんだ。

 あの人は、まだ、あきらめていないんだ。

 口元を、ぎゅっと引き結ぶ。泣くのは、あとだ。

「……食べるあいだ、そこにいて。盆を返すときに、渡すものがあるわ」

 少年は、何も言わずに、扉のそばにしゃがみこんだ。

 私は、食事を口に運びながら、盆の裏に、小さな字で、書きはじめた。

 塔の見回りの時間。宝物庫への道。地下の抜け道。子どものころ、兄様といっしょに走り回った、全部を。

 それから、別の紙切れを、一枚だけ。

 何を書こうか、ずいぶん迷った。

 無事よ、と書こうか。ありがとう、と書こうか。会いたい、と。

 ……そんなこと、書けるはずがない。

 結局、たった一行だけ、書いた。

 『満月の夜、待っているわ。──今度の段取りも、あなたに任せる』

 書いてから、頬が熱くなった。

 こんな一行を読んだら、あの人は、どんな顔をするだろう。眼鏡を押し上げて、きっと、何でもない顔をして。……それから、手帳を、ものすごい勢いで埋めはじめるのだ。

 でも、紙切れを、書き直しはしなかった。

 それが、私の、本当の気持ちだったから。

◇

 満月まで、あと三日。

 夜、窓の格子のあいだから、太っていく月を見上げる。

 もう、王都の北側を見ても、泣きそうにはならなかった。

 公爵家の屋敷のあたりも。

 あのあたりで、今ごろ、あの人は、細かすぎる字で、手帳を埋めているだろうか。

 眼鏡を押し上げて。眠らずに。

 ……そう思ったら、口元が、勝手にゆるんだ。

 私は、月の光の中に、まっすぐに立った。

 背筋を伸ばして。いつでも、あの扉が開いてもいいように。

 ──遅いわ、と、言ってやるために。

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