第二部 厨房の少年
「──自分も行く」
お兄様が、きっぱりと言った。
「神殿の中のことは、自分の目で確かめたい。下働きの服を用意してもらえれば、あとはどうにでもなる」
「ならねえよ」
マークが、即座に言った。
公爵家の厨房の裏。小さな物置き小屋の中で、マークは、素朴な麻の上着を羽織りながら、お兄様を頭のてっぺんからつま先まで、じろりと見た。
「あんたんとこの兄妹は、変装すんな。背筋が伸びすぎてんだよ。あと、眼鏡の拭き方でばれる」
「……眼鏡の拭き方は、前にも言われた。どう拭けばいいんだ」
「拭かなきゃいいんだよ。下働きは、眼鏡が曇ってても気にしねえ」
「…………」
お兄様が、はじめて言い返せない顔をした。
マークは、そのあいだにも、手を止めなかった。いつもの茶色いくせ毛を、水でべったりとなでつける。そばかすの上に、かまどの煤を、指でちょんちょんとつける。それから、肩を少しだけ落として、うつむきがちに、立ち方を変えた。
たったそれだけで。
そこにいたのは、もう、マークじゃなかった。どこの厨房にもいそうな、ただの、おどおどした下働きの少年だった。
「……すごい」
思わず、声が出た。
「マーク、それ、私にも教えて! 私も一緒に行きたい! イザベラ様は、私のために二回も残ってくれたんだもん。今度は、私が……」
「──お嬢様の場合」
小屋の入り口で、アルが口を開いた。
「変装を覚えられるより、黙っていらっしゃるほうが、ずっと早いかと」
「どういう意味!?」
「デビューのあと、下町での変装は、三分で破綻いたしましたので。スカーフから、桜色の髪がはみ出しておられました」
「あれは、アルが剣を下げたまま、すぐ後ろについてきたからでもあるよね!? あんなの、どこからどう見ても護衛つきのお嬢様だよ!」
「……多少は」
言い合う私とアルと、まだ眼鏡に手をやったまま固まっているお兄様を見て、マークが、うつむいた下働きの少年のままで、ぶっと吹き出した。
「……安心しろよ。俺が、全部見てきてやる」
そう言って、空っぽの水桶をひとつ、肩に担いだ。
「神殿の厨房は、毎朝、下町から水運びと薪運びを雇うんだ。顔なんて、いちいち誰も覚えちゃいねえ。……一日あれば、塔のてっぺんまで、飯を運ぶ係になってやるよ」
◇
その日の夕方。
私は、診療所にいた。
じっとしていられなかった。マークが帰ってくるまで、何もできない。でも、何もしないで待つのは、もっとできなかった。
「……お嬢様。そちらの子の包帯、三度目ですが」
「えっ、あ、ほんとだ……」
狼の夜に、転んでひざをすりむいた男の子。もうほとんど治っているのに、私は、何度も包帯を巻き直していたらしい。
「せいじょさま、もういたくないよ?」
「……うん。ごめんね。強くてえらいね」
男の子の頭をなでると、男の子は、うれしそうに笑って、外へ駆けていった。
その背中を見送りながら、私は、つい、つぶやいていた。
「……アル。私、怖いんだ」
「…………」
「満月の夜のことも、ユリウス様とイザベラ様のことも。……でも、いちばん怖いのは、そういうのじゃなくて」
私は、診療所の中を見回した。
大鍋の前で、たくさんの水を沸かしているトマスさんたち。薬を小瓶に詰めている、北側のおかみさんたち。小さな子に、手の洗い方を教えている、少し大きな子どもたち。
「私がしっかりしなかったら、みんなのことも、守れない。……そう思うと、手が、勝手にふるえるの」
アルは、しばらく、何も言わなかった。
それから、私の隣に、すっと、片ひざをついた。
立ったままじゃない。座っている私と、同じ高さで。
「……お嬢様。あちらをご覧ください」
アルが、倉庫のすみっこを、目でさした。
さっきの男の子が、自分より小さな女の子のひざに、私と同じように、ぶかっこうな包帯を巻いていた。「せいじょさまのまね!」と、得意そうに。
「……お嬢様が、おひとりで守らなくてもよいように。それが、お嬢様がここで、なさってきたことですよ」
……あ。
──結界は、ひとりで張っちゃだめ。
ミコトさんの字が、頭の中で、ふっとよみがえった。
アルは、もう、私を見ていなかった。すみっこの子どもたちを見ている。
でも、その横顔は、いつもの無表情より、ほんの少しだけ、やわらかく見えた。
「……アルって、たまに、すごくいいこと言うよね」
「たまに、ですか」
「ふだんは、嫌味しか言わないもん」
「嫌味のほうが、お嬢様にはよく効きますので」
笑ってしまった。
笑ったら、手のふるえが、いつの間にか止まっていた。
……笑った私を見て、アルが、なぜか、すっと反対側を向いた。
そのまま、夕焼けのほうを向いて、しばらくこちらを見なかった。
◇
マークが戻ってきたのは、二日目の夜だった。
公爵家の物置き小屋。煤だらけの顔のまま、マークは、どっかりと薪の山に腰を下ろした。
「……塔のてっぺんの飯運び、もう俺の仕事だ」
「たった一日で!?」
「前の飯運びが、階段がきついって、ぶうぶう言ってたからな。代わってやるって言ったら、泣いて喜ばれた」
マークは、懐から、小さくたたんだ紙切れを、二枚取り出した。
「銀髪の姉ちゃんは、祈りの塔のてっぺんだ。飯の盆を渡すときに、『段取り屋の兄ちゃんからだ』って耳打ちしたら、一瞬でわかったよ。……こっちは、塔の見回りの時間と、宝物庫への道。あの姉ちゃんが、飯を食いながら、盆の裏に、ふんだんに書いてくれた」
びっしりと書きこまれた、細くてきちんとした字。
「……それと、銀髪の兄ちゃんのほうは、塔じゃねえ。大聖堂の地下だ」
「地下……? それって」
「宝物庫の、すぐ横だ。じいさんに逆らった罰として、満月の夜、大祈祷でじいさんに力を集める『祈り手』のひとりにされるらしい。……自分のじいさんに、自分の手で、力を渡させられるんだ」
小屋の中が、しんとした。
「……どこまでも、ひどいやり方をする人だね」
自分の声が、ひどく静かだった。
マークは、もう一枚の紙切れを、黙ってお兄様に差し出した。
「……こっちは、あんた宛てだとよ」
お兄様が、それを受け取って、開いた。
短い、たった一行だけ。私のところからも、その細い字が見えた。
『満月の夜、待っているわ。──今度の段取りも、あなたに任せる』
お兄様は、しばらく、その紙切れを見つめていた。
それから、胸の内ポケットの、もう一枚の紙切れの隣に、そっと、しまった。
「……任された」
小さな声だった。でも、その声には、もう、一晩じゅう裏門の前に立ちつくしていた人の弱さは、どこにもなかった。
◇
「──それと、もうひとつ」
マークが、煤だらけの顔を、ぎゅっとこわばらせた。
「厨房の前を通った神官たちが、話してたんだ。……今日、神殿から王宮に、使いが出たって」
「王宮に?」
「満月の夜の大祈祷に、国王陛下をお招きするって。『女神の奇跡を、ぜひその御目でご覧いただきたい』ってよ」
背中が、すうっと冷たくなった。
五十年分のおばあちゃんの力を、自分のものにする。
その瞬間を、この国の王に、見せつける。
──王家は、今のままでは神殿に手を出せない。
殿下の言葉が、よみがえる。
もし、満月の夜、王の目の前で、あの人が「女神に選ばれた」と名乗ったら。
この国は、もう二度と、あの人に逆らえなくなる。
「……満月まで、あと三日だ」
お兄様が、手帳を開いた。
その手は、もう、少しも震えていなかった。




