第二部 排水溝のショール
神殿の裏門は、丘の北側の、ひとけのない坂道の突き当たりにあった。
夜明け前の、いちばん暗い時間。その門の向かいの、古い石塀の影に、お兄様は立っていた。
「……お兄様」
声をかけると、お兄様は、ゆっくりと振り返った。
眼鏡が、夜露で曇っていた。外套の肩も、しっとりと濡れている。一晩じゅう、ここから一歩も動いていないと、ひと目でわかった。
「……サラか」
その声が、ひどくかすれていた。
「合図は、書斎の北の窓に、灯りを三度。無事に出られないときは、二度。そう決めていた。……一度も、上がらなかった」
お兄様は、手に握った手帳を見下ろした。そのページには、細かい字で、見回りの時間と、歩数と、いくつもの「もしも」が、びっしりと書きこまれていた。
「……どこで、段取りを間違えたのか。一晩じゅう考えていたが、わからない」
お兄様の手が、手帳を、ぎゅっと握りしめた。
「あの人は、『危険じゃない段取りを、あなたが考えて』と言った。……私は、それに、応えられなかった」
十八年。
私の無茶の後始末を、いつもいつも、先回りして片付けてきた人。「却下だ」と言いながら、いちばんに道を敷いてくれる人。
その人が、こんな顔をするのを、私は初めて見た。
私は、お兄様の、濡れた肩に、そっと手を置いた。
「……お兄様のせいじゃないよ」
「…………」
「お兄様が敷いてくれた道は、いつだって、ちゃんとここまでつながってた。北の森も、大聖堂も、診療所も。……だから、今度も、きっと、どこかにつながってる。一緒に探そう」
お兄様が、ゆっくりと、私を見下ろした。
曇った眼鏡の奥で、何かが、少しだけ揺れた。
「……妹に、慰められる日が来るとはな」
「たまにはいいでしょう? 十八年分のお返しだよ」
「……それは、釣り合いがとれないな」
お兄様は、ほんの少しだけ、口の端をゆるめた。
そして、眼鏡を外して、ハンカチでごしごしと拭いた。
ふと、背中に視線を感じて振り返ると、少し離れたところで、アルが、じっとこちらを見ていた。
無表情だった。でも、その灰色の瞳が、私と目が合った瞬間、すっと、そらされた。
……あれ?
いつもなら、「お嬢様がお兄様を慰めるとは、明日は雪ですね」くらい言いそうなのに。
◇
「──おい。こっちだ」
坂道の下のほうから、マークの小声がした。
神殿の外壁に沿って、細い溝が流れている。神殿の中から、雨水や洗い物の水を流すための、排水溝だ。その出口の、石の格子の前で、マークがしゃがみこんでいた。
「試しに、もう一回、壁のまわりを全部見て回ったんだ。……そしたら、これが引っかかってた」
石の格子の、内側。
水に濡れて、ぐっしょりと重くなった、一枚の布が、引っかかっていた。
淡い藤色の、ショール。
「……イザベラ様の……」
お兄様が、息をのんだ。
私も、知っている。大聖堂のあと、公爵家にやってきたとき。イザベラ様は、この色のドレスを着ていた。
アルが、剣の先で、格子のすきまから、そっと布を引き寄せた。
重い。布だけの重さじゃない。
濡れたショールの中に、何かが、きつく包まれていた。
布をほどく。
中から出てきたのは、古びた革の表紙の、分厚い一冊の本だった。
油を塗った革で、何重にも包まれていて、中身はほとんど濡れていない。
「……これ……」
「──書斎の、日記だ」
お兄様の声が、かすかに震えていた。
そして、ショールの端に、細い糸で、小さな紙切れが結びつけられていた。
濡れて、墨が、少しにじんでいる。それでも、細くて、きちんとした、あの字。
『合図は無理。見回りの時間が、変わっていた。 日記だけ、ここから流します。 ──あなたの段取りは、杜撰じゃなかったわ』
お兄様が、その紙切れを、じっと見つめていた。
長い、長いあいだ。
それから、その紙切れを、ていねいにたたんで、自分の胸の内ポケットに、そっとしまった。
「……見回りの時間が、変わっていた、か」
「お兄様……」
「……つまり、向こうは、わかっていたということだ。あの二人が、書斎に来ることを」
お兄様の声は、もう、震えていなかった。
代わりに、ひどく、冷たかった。
◇
公爵家の書斎で、お兄様は、その日記を開いた。
エルディアの字。私にも読める、こちらの字。でも、お兄様は、私には読ませなかった。「先に、私が読む」とだけ言って。
窓の外が、ゆっくりと白んでいく。
お兄様は、一枚、また一枚と、ページをめくっていった。そのたびに、顔から、色が消えていった。
やがて、あるページで、お兄様の手が、止まった。
「……サラ。大叔母上を、呼んできてくれ。……それと、ギデオン殿も」
「……何が、書いてあったの」
お兄様は、しばらく答えなかった。
それから、日記のそのページを、私のほうへ、ゆっくりと向けた。
五十年前の日付。北の森で、結界が張られた、その日の。
若い神官の、勢いのある、でもどこか歪んだ字だった。
『本日、聖女の護衛として、神殿騎士団を北の森へ向かわせよとの命を受ける。 私は、騎士団を、森の入り口で止めた。 あの女には、あの騎士がいれば十分だろう。 あの女が選んだのは、あの騎士なのだから』
……え。
頭の中が、真っ白になった。
要石の記憶。赤い空。結界を張るおばあちゃん。その前に、ひとりで飛びこんだ、桜色の髪の騎士。
あの広場には、おじいちゃんしか、いなかった。
おばあちゃんを守るはずの騎士団は、そこに、いなかった。
だから、おじいちゃんは、ひとりで魔竜の前に立った。
だから、あんなに深い傷を負った。
──あの女が選んだのは、あの騎士なのだから。
手が、震えた。
気づいたら、私の手は、書斎の机のふちを、つかんでいた。つかまないと、立っていられなかった。
その手の上に、大きな手が、そっと重なった。
アルだった。
何も言わなかった。ただ、重ねた手に、ほんの少しだけ、力をこめた。
窓の外で、朝日が昇り始めていた。
満月まで、あと、五日。
「……許さない」
診療所で、魔石を握りしめて言ったのと、同じ言葉だった。
でも、今度は、もうひとつ、つけ加えた。
「──ユリウス様も、イザベラ様も。必ず、取り戻す」




