第二部 閑話 上がらない灯り (ルーカス)
合図は、書斎の北の窓に、灯りを三度。
無事に出られないときは、二度。
自分で決めたことだ。手帳にも、そう書いてある。見回りの時間。書斎から裏門までの歩数。万一のときの逃げ道。そのどれも、彼女が子どものころの記憶から教えてくれたものを、私が一つずつ、組み立てたものだ。
組み立てながら、何度も、自分に言い聞かせた。
──これは、段取りの話だ。
◇
夜が、更けていく。
神殿の裏門の向かい。古い石塀の影。私は、そこに立って、北の窓を見上げていた。
厚い雲が、満ちかけの月を隠していた。神殿の窓は、どれも真っ暗だった。
約束の刻限が、過ぎた。
灯りは、上がらない。
……少し、遅れているだけだ。書斎の扉の鍵に、手間取ったのかもしれない。日記が、思った場所になかったのかもしれない。
理由なら、いくらでも考えられた。
そのどれも、安心できる理由ではなかった。
◇
二度目の刻限が、過ぎた。
灯りは、やはり、上がらない。
三度も。二度も。一度も。
自分の心臓の音が、うるさかった。
二度の灯りなら、まだよかった。無事には出られない。でも、それを知らせることができる。彼女が、自分の手で、灯りを掲げられる。
一度も上がらないということは。
──その灯りを掲げることさえ、できないということだ。
私は、手帳を開いた。暗くて、字はほとんど読めなかった。それでも、開かずにはいられなかった。
どこを、間違えた。
見回りの時間か。歩数か。入る扉か。それとも、そもそも、あの兄妹を、あの建物に戻したことそのものか。
──危険だと思うなら、危険じゃない段取りを、あなたが考えて。
彼女は、そう言った。あの紫の瞳で、まっすぐに私を見て。
私は、任されたのだ。
そして、それに、応えられなかった。
◇
裏門に、一歩足を踏み出しかけた。何度も。
門を叩いて、中に入って、彼女の名前を呼んで。そうしたかった。
できなかった。
公爵家の跡取りが、夜中に、神殿の裏門を叩く。それがどういうことになるのか。その瞬間、オルドヴィンは、公爵家が神殿に入りこもうとしたという証拠を手に入れる。彼女を、もっと深いところへ閉じこめる口実を。サラを、自分の一族に引き寄せる口実を。
理屈では、わかっている。
わかっているから、動けない。
……こんなときでさえ、理屈でしか動けない自分が、生まれて初めて、ひどく恨めしかった。
サラなら、もうとっくに、あの門を叩いているだろう。無茶だとわかっていても。後始末をするのは、いつも私なのに。
……そういうとき、私は、あの子のことを少しだけ、うらやましいと思う。
◇
北の森のことを、思い出していた。
青ざめた顔の彼女に、上着をかけたときのこと。理屈としては、正しかった。そのあと、振り返れなかったのは、理屈ではなかった。
洗って返された上着に添えられていた、細くてきちんとした字の手紙。
私が書いた手紙に、「細かすぎて、三度読み直しましたわ」と言った声。
公爵家の応接室で、「段取りの話、なのね」と、少しだけ笑った顔。
どれも、理屈には、並べられない。
並べられないものばかりが、今夜、私の頭の中で、一度も消えなかった。
◇
夜露が、外套にしみこんでいく。眼鏡が、白く曇っていく。
拭こうとは思わなかった。この窓から目を離した瞬間に、灯りが上がったら。そう思うと、まばたきさえ、惜しかった。
曇った眼鏡の向こうで、北の窓は、ずっと、真っ暗なままだった。
私は、手帳のいちばん後ろのページを開いた。
何も書いていない、白いページ。段取りは、いつも、前から順番に書く。ここには、まだ何も書いたことがない。
暗闇の中で、手探りで、ペンを走らせた。
自分でも、何を書いたのか、よく見えなかった。
ただ、それは、段取りではなかった。
──どうか、無事で。
たったそれだけの、理屈も何もない、祈りだった。
◇
東の空が、うっすらと白み始めたころ。
坂道の下から、足音がした。
うるさいくらいにまっすぐな足音と、音も立てない重い足音。
振り返らなくても、わかった。
「……お兄様」
やはり、来たかと思った。
あの子は、いつだって、止めても無駄なのだ。
だから私は、いつも、その先に道を敷いてきた。
……今夜だけは、その道が、どこにもつながっていない気がした。
「……サラか」
自分の声が、ひどくかすれていて、一晩じゅう、ひとこともしゃべっていなかったことに、そのとき、ようやく気づいた。




