第二部 それぞれの決意
「……殿下に、お届けしてきた」
次の日の夕方。王宮から戻ったお兄様が、玄関でライザを呼び止めた。
「ライザの香草茶は、その場でお淹れした。殿下は半分ほど飲まれて、それから手紙を読まれて。……しばらく、窓のほうを向いておられた。目が、少しだけ赤かったな」
「えっ……まだ、どこかお加減が悪いんでしょうか……」
ライザが、心配そうに眉を寄せた。
それから、ふと自分の胸に手を当てて、不思議そうに首をかしげた。
「……あれ?」
「どうしたの、ライザ」
「いえ、なんでもないです。……なんだか、このへんがむずむずして」
「……そうですか」
私の後ろで、アルが、なぜかものすごく遠い目をして、つぶやいた。
……アルって、最近、殿下の話になると、いつもこういう顔をする気がする。
◇
次の日。公爵家の応接室には、これまででいちばんたくさんの人が集まっていた。
お父様、お母様、お兄様、大叔母様。ギデオン様。まだ少し顔色の悪いセドリック殿下。ユリウス様とイザベラ様。額に布を巻いたマークと、直立不動のトマスさん。そして、いつの間にかちゃっかりと座っているミレーユ。
「……ミレーユ、いつ来たの?」
「うふふ。噂のあるところに、わたくしありですわ」
……この子は、本当にどこから情報を仕入れてくるんだろう。
「──では、始めようか」
殿下が、いつもの完璧な笑顔で口を開いた。でも、その声は、いつもよりずっと低かった。
「結論から言うよ。王家は、今のままでは神殿に手を出せない」
「えっ……! だって、魔石も、帳簿もあるのに……!」
「そうだね。でも、この国は五十年、『神殿が結界を張って国を救った』と信じてきた。その神殿に王家が剣を向ければ、民の半分は、王家のほうを『恩知らず』と呼ぶ。……父上が、何十年も頭を下げつづけてきたのは、そのせいだ」
殿下は、一瞬だけ、目を伏せた。
「だから、必要なものは三つだ」
殿下は、指を一本ずつ立てていった。
「ひとつ。満月の前に、五十年前の本当のことを、王都じゅうに知らしめること。結界を張ったのは神殿ではなく、聖女だったと」
「ふたつ。満月の夜、大祈祷が始まる前に、宝物庫の魔石を押さえること」
「みっつ。その魔石を北の森の要石まで運び、力を、元の場所に返すこと」
殿下の青い瞳が、まっすぐに私を見た。
「……三つ目は、君にしかできない」
「……はい」
私は、うなずいた。
◇
そこから先は、みんなが、自分にできることを持ち寄った。
「五十年前のことなら、私が証言するわ」
大叔母様が、杖をこつんと鳴らした。
「あの人が、北の森へ立つ前の夜に書いた手紙もある。……五十年、黙っていた分を、今度こそ全部言うわ」
「僕もだよ、ヒルダ」
ギデオン様が、もじゃもじゃの白い髪をかきながら言った。
「あの日、北の森で見たことを。……今度は、十二の子どもの言うことじゃない。王宮魔術師団の団長の言うことだ。聞かないとは、言わせないよ」
「北側の連中は、俺がまとめる」
マークが、腕を組んだまま言った。
「ばあちゃんみてえに、五十年前にあの光を見た年寄りは、まだいくらでもいる。それに、子どもを狙われたって話は、もう北側じゅうに広まってる。……南にも、東にも、広めてやる」
「貴族のみなさまのほうは、わたくしにお任せくださいな。五十年前の本当のお話を、お茶会でそっと広めておきますわ」
ミレーユが、ふんわりと笑った。笑ったまま、手にした扇を、ぱちん、と小さく閉じた。……あれは、たぶん、本気で怒っているときの音だ。
「ただ、神殿の治癒を受けられなくなるのが怖くて、本当のことを知っても黙ってしまう方が、きっと大勢いらっしゃいますの。……でも、もう薬がありますでしょう? ですから、そのこともあわせて、そっとお耳に入れてさしあげようと思いますの。怖がらなくても大丈夫ですわよ、って」
「自分たちは! 満月の夜、宝物庫の魔石を運ぶのを、手伝います!!」
トマスさんの声が、窓ガラスをびりびりさせた。
「警護隊の市民出身の連中は、みんな、桜色様に家族を救われています! 何人でも、集めてみせます!」
「……ありがとう。みんな、本当に」
喉の奥が、きゅうっと熱くなった。
「お礼は、全部終わってからにしろって、前に言っただろ」
マークが、そっぽを向いて言った。
◇
「……ひとつ、足りないものがあります」
それまで黙っていたユリウス様が、静かに口を開いた。
「結界を張ったのが聖女だったと、証言する人はいる。でも、『神殿がその手柄を奪った』と、神殿の内側から証明できるものがない。……祖父は、すべて『先代の大神官がしたこと』と言うでしょう」
「それは……」
「祖父の書斎に、帳簿と一緒に、もうひとつ、古い日記がありました。……五十年前の日付の。祖父自身の字です」
応接室が、しんとした。
「帳簿を写すので、精一杯でした。……いえ。正直に言います。開くのが、怖かったんです」
ユリウス様は、自分のひざの上で、両手をぎゅっと組んだ。
「祖父が、五十年前に何をしたのか。……私は、それを、自分の目で確かめなければならない」
「……私も行くわ、兄様」
イザベラ様が、兄の組んだ手の上に、そっと自分の手を重ねた。
「──だめだ」
即座に、声がした。
お兄様だった。
応接室じゅうの視線が、いっせいにお兄様に集まった。お兄様は、一瞬だけ、自分でも驚いたような顔をして、それから眼鏡を押し上げた。
「……診療所を襲わせる人間の書斎だ。危険すぎる。あなたまで行く必要はない」
「……でも、兄様ひとりで行かせるほうが、もっと危険だわ」
イザベラ様は、お兄様をまっすぐに見返した。
「それに、私は、祖父の書斎のそばの廊下の、見回りの時間を、子どものころからぜんぶ知っている。兄様は、一度も抜け出したことがないから、知らないでしょうけれど」
「…………」
ユリウス様が、わずかに目をそらした。どうやら、本当らしい。
「……だから、ローゼンベルク様」
イザベラ様は、お兄様に向き直った。
「危険だと思うなら、危険じゃない段取りを、あなたが考えて。……得意でしょう」
お兄様は、しばらく、何も言わなかった。
それから、黙って手帳を開いて、ものすごい勢いで何かを書き始めた。
「……見回りの時間を、すべて教えてくれ。それと、書斎からいちばん近い出口と、そこまでの歩数。……それから、何かあったときに、外へ知らせる合図も決めておく」
「……ふふ。そう来なくちゃ」
イザベラ様が、小さく笑った。
初めて聞く、やわらかい笑い声だった。
「あら……」
「おや。おやおやおや」
ミレーユとギデオン様が、そろって、うれしそうにつぶやいた。
……だから、何が「あら」で「おや」なんだろう。
◇
その夜。
私は、自分の部屋で、ミコトさんの日記の四冊目を、もう一度開いていた。
切り取られたページの、その先。書庫では、読む時間がなかったところだ。
【結界の張り方を、ここに書いておく。いつか、次の子が困らないように。】
どきんと、心臓が鳴った。
【大事なことは、ひとつだけ。結界は、ひとりで張っちゃだめ。】
【聖女の光は、種になるだけ。その種を育てるのは、みんなの「守りたい」って気持ち。たくさんの人と、手を重ねて張ること。】
【ひとりで張ると、光が全部、その子から出ていっちゃうから。】
……あ。
おばあちゃんは。
あの日、北の森で、ひとりで結界を張ったんだ。知らなかったんだ。このページのことを。だから、全部の光を使い果たして、おじいちゃんを治す光が、一粒も残らなかった。
もし、このページを、おばあちゃんが読めていたら。
──神殿の書庫の、いちばん奥の棚。百年以上、誰も読めないまま。
私は、日記を、そっと胸に抱きしめた。
……今度は、ひとりじゃない。
◇
扉を開けると、やっぱり、アルがいた。
「……アル。満月の夜、私、たぶん、また無茶すると思う」
「存じております。三日前から、そういうお顔をなさっていますので」
「……止めないの?」
「お止めして、お聞き入れいただけたことが、これまで一度でもございましたか」
「……ない、です」
「でしょうね」
無表情。いつもの声。
「──でしたら、お嬢様が無茶をなさる場所の一歩手前に、必ずおります。……転ばれる前に、受け止められる距離に」
「……うん」
私は、日記を抱えたまま、アルの顔を見上げた。
「その代わり、アルも、無茶しないでね。……ひとりで、何でも背負わないでね」
アルの灰色の瞳が、ほんの少しだけ、揺れた。
しばらく、何も言わなかった。
それから、いつもより、ほんの少しだけ低い声で、答えた。
「……お約束は、いたしかねます」
「……ずるい」
「よく言われます。主に、お嬢様に」
ずるい。
でも、その声が、なぜか、いつもよりずっとやさしく聞こえて、胸がぎゅっとなった。
◇
二日後の明け方。
窓ガラスが、こつん、と鳴った。
飛び起きて窓を開けると、マークが、いつものように枝にぶら下がっていた。
でも、その顔は、いつもと全然違った。
「……昨夜、神殿に入った銀髪の兄妹が、まだ出てこねえ」
緑の瞳が、ひどく強ばっていた。
「合図の灯りも、上がらなかった。……あんたんとこの兄貴、一晩じゅう、神殿の裏門の前から動いてねえぞ」




