第二部 五十年文の宝物庫
「……間違いないね」
公爵家の応接室。ギデオン様は、丸いレンズをそっとテーブルに置いた。
いつもののんびりした声じゃなかった。寝ぐせのついた白い髪の下で、薄い緑の瞳が、ひどく冷たく光っていた。
「魔物を呼び寄せるための術式が、刻まれている。瘴気をまとった生き物は、この石の『声』を聞くと、まっすぐにそこへ向かう。……神殿の紋章。神殿の術式の癖。そして、中に詰められているのは」
「……おば……五十年前の聖女様の、光」
「そうだね」
ギデオン様は、骨ばった指で、視線を落としたまま、石をそっとなぞった。
「あの人の光で、魔物を呼ぶ。……こんな使い方を思いつく人間が、この世にいるとはね」
応接室が、しんと静まり返った。
お父様も、お母様も、お兄様も、大叔母様も。誰も、しゃべらなかった。
大叔母様の杖を握る手だけが、白くなるほど強く、握りしめられていた。
◇
「……お嬢様」
沈黙を破ったのは、扉のそばに控えていたライザだった。
「こんなときに、すみません。……あの、殿下のお怪我、どうなったか聞いてますか?」
「お兄様の話だと、傷はもうすっかりふさがって、いつもどおりにしてらっしゃるって。ただ、血をたくさん流されたから、まだ少しお疲れみたい」
「……そうですか! よかったぁ……」
ライザは、ほっとしたように胸に手を当てた。それから、少しだけ迷うように、エプロンのすそをつまんだ。
「ほんとは、ちゃんとお礼を言いたいんです。あの夜、私なんかをかばって、あんな大けがをされたのに。……でも、侍女が王宮に行くなんて、無理ですよね」
いつもの元気な声じゃなかった。小さくて、少しだけしょんぼりした声。
……そうだよね。公爵家の侍女が、ひとりで王宮の門をくぐれるはずがない。
「じゃあ、うちから殿下にお見舞いを届けるとき、ライザからのものも一緒に入れてもらおうよ。お兄様、明日王宮に行くって言ってたし」
「えっ、いいんですか!」
ライザの顔が、ぱっと明るくなった。
「……でも、何をお贈りしたらいいんでしょう。お花なんて王宮にいっぱいありますし、お菓子だって、王宮の料理人さんのほうがずっと上手ですし……」
「うーん。殿下が、本当にうれしいもの……」
私は、真剣に考えた。殿下が好きなもの。……お砂糖?
「お砂糖とか?」
「お砂糖……王子様に、お砂糖……」
ライザも、真剣な顔でうなずきかけて、それから首を横に振った。
「……いえ、だめです! 殿下、お砂糖入れすぎなんですから!」
そこなんだ。
ライザはしばらくうーんと唸っていたけれど、やがて、ぽんと手を打った。
「決めました! 私が、いちばんいいと思うものにします!」
その日の昼前、ライザは厨房の片すみで、公爵領の薬草園から分けてもらった葉っぱを、ひとつひとつ確かめながら、小さな袋に詰めていた。疲れた体を温めて、夜よく眠れるようになる香草茶。ライザがお母さんに習ったという、公爵家の厨房に昔から伝わる配合だ。
それに、短い手紙を一枚。
……いつもより、ずっと時間をかけていた気がする。
「……殿下は、今度こそ、泣かれずに済むでしょうか」
私の後ろで、アルが、ぼそりとつぶやいた。
「え? なんで殿下が泣くの?」
「……独り言です。お気になさらず」
……やっぱり、この人の独り言は、よくわからない。
◇
午後。
その日の公爵家の玄関に、二つの銀色の髪が並んだ。
ユリウス様と、イザベラ様だった。
イザベラ様の顔は、紙のように白かった。そして、紫の瞳が、はっきりと怒りに燃えていた。
「……診療所にいた子どもたちは?」
応接室に通されるなり、イザベラ様はそう聞いた。礼も、挨拶も、忘れたように。
「無事です。ライザが守ってくれたから。……それと、殿下も」
「……そう」
イザベラ様は、立ったまま、ぎゅっと目を閉じた。そして、ひどく震える声で言った。
「……お祖父様は、子どもを、狙ったのね」
だれも、否定できなかった。
応接室の入り口で、お兄様が、一歩だけイザベラ様のほうへ足を踏み出しかけて、そこで止まるのが見えた。
代わりに、だまって椅子を引いた。
「……座ってください。顔色が悪い。倒れられたら、話が進まない」
「……段取りの話、なのね」
「そうだ」
イザベラ様は、小さく息を吐いて、その椅子に腰を下ろした。
……少しだけ、顔色が戻った気がした。
◇
「──神殿には、宝物庫があります」
ユリウス様が、静かに口を開いた。
「大聖堂の、さらに地下。大神官だけが入れる場所です。私も、子どものころに一度、祖父に連れられて入っただけでした」
ユリウス様は、懐から一枚の紙を取り出して、テーブルに広げた。
数字が、びっしりと並んでいた。日付と、数と、短い言葉。それが、何年分も。
「宝物庫の帳簿の、写しです。……昨夜、診療所のことを聞いてから、祖父の書斎から、写してきました」
「……兄様が、お祖父様の書斎から……?」
イザベラ様が、息をのんだ。
ユリウス様は、何も答えなかった。ただ、帳簿の写しの、いちばん下の行を、指でさした。
「……五十年分です」
淡々とした声。でも、その指先が、わずかに震えていた。
「五十年間、要石から吸い取った力を、魔石にためて、宝物庫に運びこんでいた。治癒に使ったのは、そのうちの、ほんの一部。残りの大半は、使われないまま、ずっと、そこにある」
「……計算が、合うね」
ギデオン様が、低くつぶやいた。前に「五十年分の、あの人の力の大半は、まだどこかにためこまれている」と言っていた、その答えだ。
「……どうして、使わずにためこんでおくの。治癒に使えば、もっとお金が入るのに」
私が聞くと、ユリウス様は、帳簿の写しの、いちばん最後の一行を、ゆっくりと読み上げた。
「『満月の夜、大祈祷にて、これをすべて用いる。聖女の力は、ついに女神の御前に返され、神殿に宿るであろう』」
「……神殿に、宿る?」
「……いえ」
ユリウス様は、紙から目を上げた。
紫の瞳が、まっすぐに私を見た。
「神殿ではなく、祖父に。……大祈祷の術式は、一人の神官の体に、祈りを集めるためのものです。その神官とは、大神官。つまり」
つまり。
五十年分の、おばあちゃんの光を。
あの人が、全部、自分のものにする。
──五十年前も、こうすればよかったのです。
大聖堂で、杯に力を吸われながら聞いた、あの声が、頭の奥でよみがえる。
背中が、すうっと冷たくなった。
「──待ちなさい」
ギデオン様が、がたんと椅子を鳴らして立ち上がった。
いつもの、のんびりしたおじいさんじゃなかった。
「五十年分の魔石を、一度に。……そんなことをすれば、魔石は、元の持ち主のところから、最後の一滴まで、力を引きずり出そうとする。元の持ち主とは──」
ギデオン様の薄い緑の瞳が、窓の外、北の空をにらんだ。
「要石だ。あの人の結界は、ひとたまりもなく、空っぽになる。……結界が、消える」
結界が、消える。
北の空の、あの黒いひび。その外から、押している、何か。
──五十年前。あの人の光に押し返されていった、あの熱いものと、同じような何かがね。
「……次の満月は」
お兄様の声が、かすれていた。
ユリウス様が、静かに答えた。
「──七日後です」




