第二部 閑話 芋を踏ませない理由 (セドリック)
王宮の、夕べの書斎。
僕は、北側の診療所についての報告書を、もう一度頭から読み直していた。
ルーカスの字は、いつものように細かくて、きちんとしている。無駄なことは、ひとつも書かれていない。一日に沸かした水の樽の数。飲ませた薬の数。熱の下がった子どもの数。
そのいちばん下に、小さな字で、一行だけ。
『サラの侍女のライザが、毎晩、病人に芋のスープを配っている。評判がいい』
……無駄なことは、ひとつも書かない男のはずなのに。
あの男は、たぶん、知っていて書いている。僕が、この一行を、何度も読み返すことを。
「……ふふ」
小さく笑って、報告書を閉じた、そのときだった。
「──殿下! ローゼンベルク公爵家から、急の使いが!」
扉の外で、侍従の声が裏返った。
◇
『北側に魔物が出た。狼が七匹。街の中を、まっすぐ診療所へ向かっている。──ルーカス』
渡された紙切れには、それだけが、ひどく乱れた字で書かれていた。
あの男が、字を乱す。
それだけで、どれほどのことが起きているのか、わかった。
診療所。
夜の診療所には、熱の下がりきらない子どもたちがいる。そして、毎晩、その子どもたちのために、芋のスープを煮ている、あの子が。
──『ライザが、毎晩』。
気づいたときには、もう、書斎の扉を開けていた。
「──馬を!」
「殿下!? 近衛の支度が、まだ……!」
「後から来させろ!」
自分の声が、廊下に響いていた。
こんな声を出したのは、たぶん、生まれて初めてだった。
◇
夜の王都を、馬で駆けた。
後ろで、近衛騎士たちの蹄の音が、だんだん遠くなっていく。それでも、手綱を握る手を、ゆるめることはできなかった。
ふと、母上のことを思い出した。
九つの冬。神殿に、二度目の治癒を断られた夜。
僕は、母上の部屋の扉の前で、ただ立ちつくしていた。王子なのに。何もできなかった。笑うことも、泣くことも。
──もう、あんなのは、いやだ。
あのとき、扉の前で立ちつくしていた小さな自分とは違う。
今は、馬に乗れる。剣も持てる。自分の足で、駆けつけられる。
だから。
間に合え。
◇
倉庫の破られた扉を、馬から飛び降りてくぐったとき。
いちばんに目に入ったのは、赤いポニーテールだった。
大鍋の蓋を盾にして、おたまを振り上げて、熱の子どもたちの前に、立ちはだかっている。
ひざが、がくがくと震えていた。声も、裏返っていた。
それでも、一歩も、引いていなかった。
……九つのあの日も、そうだった。
自分の背丈より長い鍬を持って、芋畑の真ん中で、仁王立ちになっていた。王子の僕に向かって、「踏まないでください!」と。
あの子は、何も変わっていない。
自分の大事なものの前では、どんなに怖くても、どかない。
そのとき。
天井近くの壊れた窓から、狼が、もう一匹。
サラフィーナ嬢も、護衛くんも、間に合わない位置だった。
あの子が、おたまを振り上げたまま、ぎゅっと目をつぶるのが見えた。
──考えるより先に、体が動いていた。
あの子を、両腕で抱きこむ。背中を、狼のほうへ向ける。
焼けるような痛みが、肩から背中を、三本、なぞった。
でも。
痛みよりも先にわかったのは、腕の中の、あたたかさだった。
小さくて、ぶるぶる震えていて、煮えた芋と、薬草と、かまどの煤のにおいがする。
──生きている。
それだけで、他のことは、何もかも、どうでもよかった。
「──護衛くん。今だよ」
そう言った自分の声が、ひどく低くて、自分でも少し驚いた。
◇
「……殿下。泣いてます?」
すべてが終わったあと。倉庫のすみっこで。
あの子は、煤と薬草で汚れた指で、僕の頬を、ちょんとつついた。
九つのあの日と、まったく同じように。
……泣いていた。
でも、少しも、痛くはなかった。
背中の傷は、もう、あの子が飲ませてくれた薬でふさがっていた。「全部飲んでください! 苦くても、残しちゃだめですよ!」と、王子の口元に、小瓶をぐいぐい押しつけて。
泣いていたのは。
あの子が、生きていたからだ。
それから、あの子が、十一年前と同じように、僕の泣き顔を、また見つけてくれたからだ。
──どうして、王子様が、こんなところに。
そう聞かれて、本当のことは、言えなかった。
君を、失いたくなかった。
そう言ってしまえば、婚約者のいる王子が、婚約者の侍女に、何を言っているのかということになる。あの子を、困らせるだけだ。
だから。
──芋を、踏ませたくなかったから、かな。
九つのあの日、あの子が「踏まないでください!」と守っていたもの。自分のものじゃないのに、自分のことのように胸を張っていたもの。
あの子の大事なものを。あの子の笑顔を。……あの子を。
もう二度と、誰にも、踏ませない。
その全部を、たったひとことに、積めこんだつもりだった。
あの子は、きょとんとして、「芋? ここは診療所ですよ?」と言った。
……うん。そうだね。
届かなくて、いい。今は、まだ。
◇
王宮に戻ったのは、夜が明けてからだった。
血だらけに裂けた外套を羽織ったまま、廊下を歩いていると、曲がり角の向こうに、ひとりの人が立っていた。
「……父上」
父上は、僕の外套の裂け目を、しばらく黙って見ていた。
「……近衛を置き去りにして、ひとりで馬を飛ばしたそうだな」
「……はい。申し訳ございません」
「……そなたが、定めも作法も放り出して走ったのは、生まれて初めてだな」
叱られると思った。
でも、父上の声は、叱る声ではなかった。
「……母上も、そういう人だった。大事なもののためなら、作法も定めも、平気で飛び越えていった」
父上は、それだけ言うと、僕の肩を、ひとつだけ、軽く叩いた。
「……傷は、もういいのか」
「……はい。薬を、飲ませてもらいましたので」
「そうか」
父上は、それ以上何も聞かずに、廊下の向こうへ去っていった。
その背中を見送りながら、僕は、ふと思った。
いつか。
この背中の三本の傷あとのことを、笑い話にできる日が来ればいい。
芋を半分こしながら。
あの子の、となりで。




