第二部 芋を、踏ませないため
十の夏にアルに教わった乗馬は、芋畑のまわりを、ぽくぽく歩かせるくらいのものだった。
夜の道を、アルの前に乗せられて全力で駆けると、馬の背が、こんなに揺れるものだとは知らなかった。
「お嬢様、しっかりつかまっていてください」
私のすぐ後ろで、アルが手綱をさばいている。片腕は、私の体を抱えるようにして。
夜の王都を、馬が駆け抜けていく。少し前を、トマスさんの馬が走っている。その前に、マークがちょこんと乗せられていた。
北側に近づくにつれて、空気が重くなっていった。鑑定の目で見るまでもない。黒いもやが、路地のあちこちに、獣の足跡のように、点々と残っている。
──ライザ。
頭の中に、あの元気な声が、何度も、何度も響く。
──お嬢様の行くところ、ライザありです!
だったら、私もだ。ライザのいるところに、私は行く。
◇
倉庫の前は、もう戦いになっていた。
「入れるな! 一匹も入れるな!!」
トマスさんの声が、大地を揺らすように響いていた。
警護隊の若い騎士たちが、倉庫の入り口の前に並んで、剣を構えている。その後ろでは、北側の人たちが、桶や鍬や木の棒を握りしめていた。
その前に。
狼が、七匹。
北の森で見たのより、ひとまわり大きい。体じゅうに、羊毛みたいにもこもこと、真っ黒なもやが詰まっている。赤い目が、夜の闇の中で、いくつも、いくつも光っていた。
そして、倉庫の扉は、もう破られていた。
「──ライザ!!」
馬から飛び降りた私の耳に、倉庫の中から、声が届いた。
「──お嬢様の診療所で、暴れないでくださいっ!!」
……ライザの声だった。
破られた扉の向こう。煮立つ大鍋の前で、ライザが、大鍋の蓋を盾のように構えて立ちはだかっていた。もう片方の手には、おたま。その後ろで、熱で赤い顔をした子どもが三人、ぶるぶる震えながら、ライザのエプロンにしがみついている。
その前に、狼が一匹。低く、うなりながら。
「こ、この子たちは、やっと熱が下がってきたところなんですからね! これ以上近づいたら、おたまで、こ、こつんって、しますよ!!」
声が、裏返っている。ひざが、がくがく震えている。
それでも、ライザは、一歩も、子どもたちの前から動かなかった。
「──アル!」
「お嬢様。私の後ろから、手を伸ばしてください」
北の森で、約束した言葉。
アルが、剣を抜いて倉庫に飛びこむ。私は、その背中に、ぴったりとついていく。
ライザの前の狼が、こちらを振り向いた。赤い目。むき出しの牙。
アルの剣が、狼の牙を受け止める。がきん、と硬い音。狼の動きが、一瞬だけ止まる。
「──今です!」
私は、アルの脇の下から、手を伸ばした。
指先が、狼の首元の毛皮にふれる。
──消えて!
光が、弾けた。黒いもやが、悲鳴のような音を立ててはがれていく。その瞬間、アルの剣がひらめいて、狼はどさりと倒れた。
「お嬢様ーっ!!」
「ライザ! けがは!?」
「ありません! おたまも無事です!」
「おたまはどうでもいいよ!!」
泣きそうになりながら、ライザに駆け寄ろうとした、そのとき。
「──お嬢様、上です!」
アルの声。
倉庫の天井近くの、壊れた窓。そこから、もう一匹の狼が、跳びこんできた。
狙っているのは、私じゃない。
ライザだ。
アルが、剣を引き戻す。間に合わない。私の手も、届かない。
ライザが、おたまを振り上げたまま、目をつぶった。
──その前に。
金色の影が、飛びこんできた。
狼の爪が、何かを切り裂く音がした。
「──っ、……」
ライザを両腕で抱きこむようにして、その背中で狼の爪を受けたのは。
金色の髪の、青年だった。
「……殿下?」
セドリック殿下が、そこにいた。
外套の肩から背中にかけて、三本の爪あとが、赤く裂けている。それでも、殿下は、片手でライザを後ろにかばったまま、もう片方の手で、狼に剣を向けていた。
「──護衛くん。今だよ」
低い声だった。いつもの、ゆったりとした声じゃなかった。
「──お嬢様」
「うん!」
アルが剣で狼の足を払い、私がその背中に手を当てる。光が弾けて、アルの剣が、もう一度ひらめいた。
◇
外では、狼の遠吠えが、ひとつ、またひとつと消えていった。
殿下に少し遅れて駆けつけた王宮の近衛騎士たちと、トマスさんたちが、残りの狼を追いつめている。もやをまとった狼は硬くて、なかなか倒れない。だから私は、一匹ずつ、アルの背中から手を伸ばして、もやをはがして回った。
七匹目が倒れたとき、東の空が、うっすらと白み始めていた。
「……殿下。動かないでくださいね」
倉庫のすみっこ。殿下は、空き樽に腰を下ろして、背中をライザに向けていた。
ライザは、完成したばかりの薄紫の小瓶を、殿下の口元に、ぐいっと押しつけていた。
「全部飲んでください! 苦くても、残しちゃだめですよ!」
私が治癒しようかと言ったら、「お嬢様は一晩じゅう浄化してたんですから、休んでください! 薬なら私にも使えます!」と、きっぱり断られたのだ。
殿下が小瓶を飲みほすと、背中の三本の爪あとが、ゆっくりと、ふさがっていった。
「……どうして、王子様が、こんなところにいたんですか」
ライザが、小さな声で言った。
「……ルーカスから、王宮に知らせが届いたんだ。北側に魔物が出た、診療所に向かっている、と」
「それで、王子様が、ひとりで先に? 近衛の方たち、だいぶ後ろでしたよね?」
「……うん。馬を飛ばしたら、ついてこられなかったみたいだね」
「どうして……」
殿下は、しばらく黙っていた。
それから、背中を向けたまま、いつもの完璧な声で、でも、いつもより、ほんの少しだけかすれた声で、答えた。
「……芋を、踏ませたくなかったから、かな」
「……芋?」
ライザが、きょとんとした。
「芋じゃなくて、ここは診療所ですよ?」
「……うん。そうだね」
殿下は、小さく笑った。
それは、口元を上げる角度も、目尻を下げる幅も、ちっとも完璧じゃない、ゆがんだ笑い方だった。
ライザが、殿下の横顔を、そっとのぞきこんだ。
「……殿下。泣いてます?」
「……泣いてないよ」
「泣いてますよ。ほら、ここ」
ライザの、煤と薬草で汚れた指が、殿下の頬を、ちょんとつついた。
殿下の肩が、びくりと震えた。
「傷、まだ痛いんですよね。痛いときは、泣いていいんですよ。……あ、そうだ。お腹、すいてませんか? 芋のスープ、まだありますよ。お腹がすいてると、痛いのも倍になりますからね!」
殿下は、何も言わなかった。
ただ、うつむいたまま、肩を小さく震わせて、ゆっくりと、一度だけうなずいた。
……なんだろう。
殿下が、小さな男の子みたいに見える。
私は、そっと目をそらした。なんとなく、見てはいけないもののような気がしたから。
すぐ横で、アルも、いつの間にか、倉庫の入り口のほうを向いて立っていた。
◇
「──おい。これ、見てくれ」
倉庫の外から、マークの声がした。
額の傷に布を巻いたマークが、倉庫の軒下を指さしている。
軒の、屋根の裏。外からは、まず見えない場所。
そこに、小さな紫色の石が、ひとつ、うめこまれていた。
魔石だ。
光が、弱く、脈打つように、点いたり消えたりしている。そしてその周りだけ、黒いもやが、引き寄せられるように渦を巻いていた。
「北の森で、狼どもがこれをめざして走ってきたんだ。……たぶんな」
アルが、剣の先で、その魔石をそっとこじり取った。ころんと、私の手のひらに落ちる。
石の裏には、小さく、羽を広げた小鳥の紋章が刻まれていた。
神殿の、紋章。
そして。
鑑定の目で、石の奥をのぞきこんだ瞬間。息が、止まった。
紫の石の奥で、小さな光の粒が、ゆらゆらと漂っている。
五つの、丸い花びらの形をした、桃色の光。
──桜。
おばあちゃんの光だった。
この国を守るために、おばあちゃんが全部使い果たした、あの光が。
魔物を呼び寄せて、子どもたちとライザを襲わせるために、使われていた。
手のひらの中で、石が、ぎしりときしんだ。
自分でも気づかないうちに、私は、それを、こわれそうなほど強く握りしめていた。
「……許さない」




