第二部 普通の日々
北側の小さな診療所は、あっという間に、小さくなくなった。
「お嬢様ーっ! 今日も列が、路地の角まで続いてますーっ!」
「角まで!?」
倉庫の入り口から、ライザの元気な声が飛んでくる。
あの朝から、十日。
病人は、もうあまり来なくなった。その代わりにやってくるのは、「水の沸かし方を教えてほしい」「手はどう洗えばいいのか」という人たちだ。北側だけじゃない。南の下町からも、東の市場からも、噂を聞いて人が集まってくる。
「沸かした水は、冷ましてから、蓋をしてしまってください。それと、手は、指のあいだと、爪の先まで!」
「爪の先まで!」
「はい、爪の先まで!」
子どもたちが、私の真似をして、ごしごしと手をこすり合わせている。
倉庫の奥では、警護隊の若い騎士たちが、大鍋で水を沸かしている。その先頭には、もちろんトマスさん。
「ローゼンベルク桜色聖女様! 本日の水、三十樽、沸きました!!」
「三十樽!? ありがとう、トマスさん! あと名前はもういいよ!」
「はっ! では、省略して、桜色様!」
「そこ残すの!?」
◇
薬のほうは、魔術師団の塔が引き受けてくれた。
「いやあ、面白いねぇ。草を煮るだけで、こんなに効くとはねぇ」
ギデオン様は、塔のいちばん上の部屋で、煮えたぎる鍋をのぞきこみながら、うれしそうに目を細めていた。
「熱の加え方、草の摘みどき、煮詰める時間。ぜんぶ、レンズでのぞいて、紙に書き留めておいたよ。これで、団員の誰が作っても、同じ薬ができる」
「誰が作っても、同じ……」
それは、すごいことだ。
私がいなくても、薬が作れる。私がいなくても、誰かが救われる。
ゲームの中の九歳の私が、ずっとほしかったものだ。
「……あの、ギデオン様。こちらの方は……?」
私は、部屋のすみっこの作業台を見た。
銀色の髪をきっちりまとめた令嬢が、小さな鍋の前で、真剣な顔で草を刻んでいた。
イザベラ様だ。
「……な、何かしら」
「イザベラ様も、薬を作ってくれてたんですか?」
「……私の力では、井戸ひとつ浄化するのに一晩かかるわ。でも、草を煮るだけなら、力はいらないでしょう」
イザベラ様は、草を刻む手を止めずに言った。
「……それに。神殿にいても、もう、祈ることもあまりないもの」
その声が、少しだけ、さびしそうに聞こえた。
小さいころから、毎日毎日、聖女になるために祈ってきた人。
「……イザベラ様の切り方、すごくきれいですね」
「……当然でしょう。祈りの儀式で、聖なる草を刻む練習なら、何年もしてきたわ」
イザベラ様は、つんとそっぽを向いた。
でも、その口元が、ほんの少しだけ、ゆるんでいた。
……そのとき。
「──作業台の、本日分の薬草だ」
後ろから、落ち着いた声がした。
お兄様だった。両腕に、薬草の束をどっさりと抱えている。
「……ローゼンベルク様が、自ら運ばれることはないでしょう」
「公爵領から届いた分を、数と状態を確かめてから渡したかっただけだ。……段取りの話だ」
「……そう。段取りの話なのね」
お兄様は、薬草の束を、作業台の上に、ゆっくりと置いた。
イザベラ様は、その束を、しばらく黙って見つめていた。
いちばん上に積まれた草だけ、他の草よりも、ひとつひとつの葉がそろっていた。たぶん、いちばんいいものだけを、そこに選んである。
「……ありがとうございますわ」
「……ああ」
それだけ。
二人とも、それだけ言って、それぞれの仕事に戻っていった。
「……おや。おやおや」
鍋の向こうで、ギデオン様が、うれしそうに白い眉毛を上げていた。
……だから、何が「おや」なんだろう。
◇
「……お嬢様。塔の階段で、今日もつまずかれるおつもりですか」
帰り道。らせん階段を下りながら、前を歩くアルが、振り向きもせずに言った。
「つまずかないよ! そんな、毎回つまずいてるみたいな……」
「先日は八十七段目、その前は十二段目で、つまずかれそうになっておられましたので」
「数えてたの!?」
「階段とお嬢様は、どうも相性がよろしくないようですので」
……この人、もう完全に、いつものアルだ。
いつもの嫌味で、いつもの無表情で、いつもの位置。前を歩く背中は、大きくて、まっすぐで。
その背中を見ているだけで、胸の奥が、きゅっと、なる。
……だめだ。もう、気のせいにできない。
でも、だからといって、どうすればいいのかもわからない。
アルは、私の護衛だ。私には、婚約者の殿下がいて、求婚してきたユリウス様がいて。アルは、「お嬢様がどなたと結ばれようと、護衛としてお仕えするだけです」って言った。
……そっか。
アルにとっては、私は、「お仕えするお嬢様」なんだ。
そう思ったら、胸の奥のものが、少しだけ、ちくりと痛んだ。
「……お嬢様。八十七段目です」
「えっ、わっ!」
考えごとをしていたら、つま先が、段差にひっかかった。
前につんのめる前に、もう、大きな手が、私の腕をつかんでいた。
「……三歩手前で、申し上げましたが」
「……聞いてなかった。ごめん」
「でしょうね」
いつもの無表情。いつもの声。
でも、つかまれた腕が、なぜか、なかなか離されなかった。
◇
その夜だった。
「──お嬢様っ!!」
扉をノックもせずに飛びこんできたのは、窓からじゃなく、玄関からでもなく、厨房の裏口からだった。
マークだった。
息が、切れているどころじゃない。額から血が流れて、服の袖が、大きく裂けていた。
「マーク!? そのけが……!」
「俺のことはいい! 北側に、魔物が出た!!」
──え。
「狼だ。五匹、いや、もっと。北の森で見たやつと同じ、目が赤いやつだ。城壁の内側に、だぞ! どうやって入ってきたのか、わかんねえ……!」
後ろで、アルが、音もなく剣を掛けるのがわかった。
「……それで、狼は?」
「街の中を、まっすぐに走ってく。まるで、はじめから、どこへ行くか知ってるみたいに。……倉庫だ。診療所に向かってる!」
背中が、すうっと冷たくなった。
──次は、薬ではなく、もっと、あなたにとって大切なものを狙うでしょう。
「……今、診療所には、誰がいるの」
自分の声が、遠くに聞こえた。
マークが、唇をかんだ。
「……熱の下がりきらない子どもが、三人。それと、夜の食事の支度をしてた、……あんたんとこの侍女だ」
あんたんとこの、侍女。
「──ライザが、まだ、中にいる」




