第二部 閑話 護衛の沈黙 (アルフレッド)
丁寧な言葉というのは、便利なものだ。
どんなに腐りきったことも、「ございます」と結べば、礼儀の範囲に収まる。どんなに本音に近いことも、「存じます」をつければ、ただの意見になる。
だから私は、十二年間、ずっと丁寧に話してきた。
丁寧であるかぎり、本当のことは、ひとつも口からこぼれないからだ。
◇
十二の年、私は、公爵家の小さな令嬢の護衛を命じられた。
正直に言えば、不満だった。
父は、公爵家に仕える騎士だった。北の森の魔物討伐で命を落としたとき、私は七つだった。それからずっと、父のような騎士になるために、剣を振ってきた。
その結果が、六つの子どものお守りだ。
初めて会った日、その子は、薔薇園だったはずの芋畑で、泥だらけになっていた。
「お嬢様。そのドレスで畑を耕すおつもりで?」
不満が、そのまま口から出た。せめてもの丁寧さを保っただけ、まだ子どもなりに、褒めてくれてもいいと今でも思う。
その子は、ぽかんと私を見上げて、それから、ぷうっと頬をふくらませて、私の顔に泥をぺたりとつけた。
……子どものやることだ。そう思って、無言でハンカチを取り出して、自分の顔をふいた。
それから、なぜか、その子の小さな手の泥も、ふいてやった。
その子は、しばらく自分の手を見つめていた。
それから、私を見上げて、せいいっぱいの笑顔で言った。
「アルの手、あったかいね」
……それだけのことだった。
父が死んでから、私の手をあたたかいと言った人は、ひとりもいなかった。剣だこだらけで、冷たくて、硬い手だと、自分でも思っていた。
その日から、私は、ハンカチをいつも持ち歩くようになった。
……それから、もう一枚。
上着の内ポケットの、いちばん奥に。一度も使ったことのない、ハンカチがある。
すみっこに、へたくそな桜の刺しゅう。
……いつか、返さなければと思いながらも、常に内ポケットにしまいこんでしまうハンカチが。
◇
それから、十二年。
お嬢様は、井戸を浄化させ、森で光る草を探し、町の広場で地べたに座りこんで子どもたちに字を教えた。熊の魔物には、自分から飛びかかっていった。
無茶ばかりする方だった。
そして、その無茶のたびに、誰かが救われていた。
いつからだったのか、私にはわからない。
気づいたときには、もう、私が剣を振る理由は、父のような騎士になるためではなくなっていた。
……だが、それを口にしていい立場ではない。
私は、一介の騎士の息子。お嬢様は、公爵家の令嬢。しかも、王家が決めた婚約者がいる。
だから、決めたのだ。
私は、護衛でいよう。お嬢様が誰と結ばれようと、その方ごと、お守りしよう。
そして、丁寧な言葉の奥に、全部、しまいこんでおこう。
少しばかり嫌味になったのは、そのせいだ。小言を言っているあいだは、余計なことを言わずにすむ。
◇
──あのデビューの日のことを、私は今でもよく覚えている。
扉を開けたお嬢様が、私を見た。
十二年、毎日見てきたはずの顔だった。なのに、あの日のお嬢様は、まるで初めて私に会うような目をしていた。
玄関で奥様に抱きしめられて、泣いた。「うれしくて」と。十二年、奥様に抱きしめられて泣いたお嬢様を、私は一度も見たことがなかった。
それから、お嬢様は、少しだけ変わった。
無茶なところも、まっすぐなところも、何も変わらない。ただ──
デビューの日までのお嬢様は、いつも、どこか遠かった。
井戸を浄化させても、熊の魔物に飛びかかっても、すぐそばにいるのに、まるで薄いガラスの向こうにいるようだった。笑っていても、その目は私の顔ではなく、もっと遠くの何かを見ているようで、私の嫌味にも、ぷうっと頬をふくらませるだけで、言い返してきたことは一度もなかった。
私は、そのガラスの向こうのお嬢様を、十二年、見上げてきたのだと思う。
デビューの日から、そのガラスが、なくなった。
お嬢様は、まっすぐ私の目を見るようになった。私の嫌味に「ひどい」と言い返すようになった。泣いて、笑って、怒って、私の手のけがを、まるで自分のけがのように怒ってくれるようになった。「アルは『私など』じゃない」と、私の手を握ったまま言うようになった。
十二年、見上げてきた光が、あの日、手の届くところまで降りてきた。
……届いてしまいそうなのが、こわい。
あの日から、ハンカチを持ち歩く理由も、少しだけ変わった。泥をふくためではなく、泣いたときに、いちばんに差し出せるように。
理由はわからない。聞くつもりもない。
お嬢様がお嬢様であるかぎり、私には、それで十分だ。
◇
──「サラフィーナ嬢。……私との、結婚を申し込みに参りました」
あの日、応接室でその言葉を聞いたとき。
頭の中に浮かんだのは、丁寧な言葉ではなかった。
──行かないでください。
たったそれだけの、みっともない言葉だった。
口を開けば、それがそのままこぼれる気がした。どんなに「ございます」をつけても、「存じます」をつけても、もう、隠しきれない気がした。
だから、黙った。
三時間、剣を振った。振っても振っても、頭の中の言葉は消えなかった。
魔術師団の塔で「二人きりで」と聞いたとき、気づいたら、手の中でガラスが割れていた。らせん階段でお嬢様に手を取られて、「『私など』じゃない」と言われたとき、もう少しで、何もかも言ってしまうところだった。
隠し通路の闇の中で、求婚の返事が「保留」だと知ったとき、ようやく息ができた。そして、つまずいたお嬢様を抱きとめたまま、しばらく、腕を解けなかった。
……護衛失格だ。
わかっている。
◇
東屋でのことは、まあ、少し大人げなかったとは思う。
だが、先に仕掛けてきたのは、殿下のほうだ。
九つのあの日、芋畑で泣いていた小さな王子を、私は遠くから見ていた。それから十一年。殿下が公爵家に来るたび、その目が誰を追っていたのか。護衛というのは、人の目を見る仕事でもある。
「……ああ、しゃべれないのか」
あの一言には、さすがに、少しだけ、ムッとした。
だから、まつ毛のゴミを取った。本当に、小さなゴミがついていたのだ。嘘はついていない。ただ、取るのに、必要以上に顔を近づけただけだ。
殿下が砂糖をこぼしたときには、正直、胸がすっとした。
──だが。
その隣で、お嬢様まで、固まっていた。
紅茶のカップを口元に持ち上げたまま。まるで、何かに刺されたような顔で。
……あれは、何だったのか。
もし、あれが。
もし、あれが、私と同じものだったとしたら。
──考えるな。
私は、護衛だ。
◇
北側の路地で、神官が「保留のお返事は、まだ有効でしょうか」と聞いたとき。
私は、剣の柄を握っていた。
自分でも気づかないうちに。神殿の後を継ぐ方に向かって。お嬢様の味方をしてくれたばかりの、その人に向かって。
……これは、もう、護衛の考えることではない。
わかっている。
北の森で、要石に触れて倒れたお嬢様を抱えたとき。いくら呼んでも目を開けてくれなくて、私は、丁寧な言葉を、ぜんぶ忘れた。
──サラ。
十二年で一度も呼んだことのない名前を、叫んでいた。
お嬢様は、「呼んだ?」と聞いた。「記憶にございません」と答えた。
嘘だ。
丁寧な言葉でついた、たぶん、生まれて初めての嘘だった。
◇
その夜も、私は、お嬢様の部屋の扉の横に立っていた。
扉の向こうから、ライザの笑い声と、お嬢様の「なんでもないってば!」という声が聞こえる。
……何が、なんでもないのだろう。
私は、壁に背をつけたまま、北の空を見上げた。
細く残る、黒いひび。
あのひびが、もし広がったら。五十年前のような戦が、また始まったら。
お嬢様は、きっと、いちばん前に立つ。
ならば、私は、そのもう一歩前に立つ。
それだけは、護衛としても、そうでなくても、変わらない。
……どうか。
どうか、気づかれませんように。
……どうか、気づいてくださいますように。
丁寧な言葉の奥で、私は、今夜も、どちらも祈っている。




