第二部 薄紫の小瓶
「──お断りいたします」
倉庫の中に、アルの声が低く響いた。
剣は、抜いていない。ただ、柄に手をかけたまま、私と神官たちのあいだに、壁のように立っている。
「公爵令嬢を、一晩じゅう病人の手当てをされた直後に、甲冑の騎士で取り囲んで連れ去る。……それが、女神の御心にかなうやり方だと、神殿はお考えですか」
「……護衛風情が、口を慎むがよい」
「護衛風情ですので、口を慎むより先に、剣を慎んでおります。……今のところは」
無表情。でも、倉庫の空気が、みるみる冷えていく。
そのとき。
私の背中のうしろで、ごそごそと音がした。
振り返ると、寝台から起き上がった人たちが、ゆっくりと私のまわりに集まってきていた。
熱の下がった子どもを抱いた母親。杖をついたおじいさん。そして──マークのおばあさん。
「……このお嬢ちゃんを、連れていくんだっていうんなら」
おばあさんは、曲がった腰を精一杯伸ばして、神官たちをにらみつけた。
「まず、このばあさんをどかしてからにしな。五十年前も、今度も、あんたたちは、うちらから大事なもんばっかり取っていくんだねぇ」
「そうだ。金がなきゃ治さねえくせに、治してくれた人を連れていくのかよ」
「薬を取り上げるって、うちの子には、もう死ねっていうのかい!」
声が、ひとつ、またひとつと重なっていく。
倉庫の入り口の外にも、いつの間にか、北側の人たちが集まってきていた。その先頭には、警護隊の制服のトマスさんたち。そして、腕を組んだマーク。
神殿騎士たちが、ちらりと、お互いの顔を見合わせた。
「……騒ぐな! これは、大神官オルドヴィン様のご命令であるぞ!」
先頭の神官が、声を裏返らせた。
「──では、そのご命令は、私が預かろう」
静かな声だった。
でも、その声で、倉庫の中が、しんと静まり返った。
神殿騎士たちが、さっと左右に分かれる。
そのあいだを、白い神官の衣を着た、銀色の髪の青年が、まっすぐに歩いてきた。
「……ユリウス様」
先頭の神官が、あわてて頭を下げた。
ユリウス様は、その神官には目もくれず、倉庫の中をゆっくりと見回した。
煮立つ大鍋。並んだ寝台。すうすうと眠る子どもたち。芋のスープを配るライザ。そして──私。
その紫の瞳が、私の顔で、ほんの少しだけ、止まった。
たぶん、ひどい顔をしている。一晩じゅう光を使いつづけて、目の下にはくまができているはずだ。
「……その『薬』というものを、ひとついただけますか」
「えっ」
私は、あわてて、完成したばかりの小瓶をひとつ、差し出した。
薄紫色に、ほんのりと光る、回復薬。
ユリウス様は、それを受け取ると、小瓶の蓋を開けて、しばらく光にかざしていた。
それから。
一口、飲んだ。
「ユリウス様!?」
神官たちが、悲鳴のような声を上げた。
ユリウス様は、しばらく目を閉じていた。そして、ゆっくりと、目を開けた。
「……聖魔法の気配は、ありませんね」
淡々とした声だった。
「草と、沸かした水と、それを煮詰める手間。ただそれだけです。……これは、治癒魔法ではない」
「し、しかし! オルドヴィン様は、神殿の外での治癒を禁ずると……!」
「そう。祖父の定めは、『女神の許しなく、神殿の外で治癒を行うことを禁ずる』。……そして、神殿において、『治癒』とは、女神の恵みたる聖魔法をもって、傷病を癒やすことを指す。神官の学びの、いちばん最初に習うことですよ」
ユリウス様は、空になった小瓶を、そっと私の手に戻した。
「つまり、この場で行われているのは、『治癒』ではない。水を沸かし、草を煮て、病人に飲ませているだけ。……神殿の定めの、及ぶところではありません」
神官たちが、口をぱくぱくさせた。
「……それに」
ユリウス様は、ほんの少しだけ声を低くした。
「この人たちを押しのけて薬を取り上げたところで、神殿に寄進が集まるわけではない。寄進の代わりに集まるのは、神殿への恨みだけです。……ここは、引き上げなさい。祖父には、私から報告します」
神官たちは、しばらく顔を見合わせていた。
それから、先頭の神官が、巻物をくるくると巻き戻して、深々と頭を下げた。
白い甲冑の一団が、ゆっくりと倉庫の入り口から引いていく。
外で、わぁっと、歓声が上がった。
◇
「……ユリウス様。ありがとうございます」
倉庫の裏手。ひとけのない路地で、私は深く頭を下げた。
少し離れたところで、アルが無言で立っている。今日は、二人きりじゃない。
「お礼を言われる筋合いは、ありませんよ」
やっぱり、そう言う。
「でも、定めの言葉の意味、あんなふうに……」
「嘘は、ついていません。神官が最初に習うことだというのも、本当です。……祖父は、魔法を使わずに人を治せるなどと、考えたこともなかったのでしょう。だから、定めに穴があった」
ユリウス様は、路地の向こうに見える、王都いちばん高い丘の上の神殿を見上げた。
「……寄進を倍にしたのは、祖父です。私は、止められなかった」
淡々とした声。
でも、その横顔が、ひどく疲れて見えた。
「……今朝、北側で、公爵令嬢が一晩じゅう病人を治して、倒れかけたという知らせが、神殿にも届きました。祖父が神官を送りこむというのも。……それを聞いて、来ずには、いられなかった」
「……えっ」
ユリウス様が、ゆっくりと、私のほうを向いた。
紫の瞳が、まっすぐに私を見ていた。書類を読み上げるような、あの淡々とした目じゃなかった。
「……あの求婚は、祖父の命令でした。妹を塔から出すための、ただの手段でした。……そのはずだったんですが」
少しの、間。
「……保留のお返事は、まだ、有効でしょうか」
心臓が、どきんと鳴った。
どう答えよう。何て言えばいいんだろう。頭の中が真っ白になる。
そのとき。
「──お嬢様。お話中、失礼いたします」
少し離れたところから、低い声がした。
「一晩じゅうお起きになっていた方に、大事なお返事を今ここで求めるのは、いかがなものかと存じます。……それとも、神殿では、眠らせないまま答えを引き出すのが、女神の御心にかなうやり方なのでしょうか」
アル。
さっき神官に言ったのと、ほとんど同じ嫌味。
ユリウス様は、ちらりとアルを見た。それから、ほんの少しだけ、口の端をゆるめた。
「……ごもっともです。今日は、これで失礼します」
そして、歩き出しかけて、ふと立ち止まった。
振り返らないまま、低い声で言った。
「……サラフィーナ嬢。気をつけてください。祖父は、定めの穴を突かれたことを、決して忘れない。……次は、薬ではなく、もっと、あなたにとって大切なものを狙うでしょう」
銀色の髪が、路地の角の向こうに消えていった。
私のすぐ後ろで、アルが、ゆっくりと剣の柄から手を離す音がした。
……ずっと、握ってたんだ。




