第二部 北側の小さな診療所
マークの家は、北側の路地のいちばん奥にあった。
狭くて、暗くて、壁のすきまから夜風が入りこむ。その奥の小さな寝台で、大聖堂の日に「この光だよ」と泣いてくれたおばあさんが、苦しそうに肩で息をしていた。
「ばあちゃん、お嬢様が来てくれたぞ」
マークが、いつもよりずっとやさしい声で言った。
鑑定の目で見る。
おばあさんの胸のあたりに、薄い黒いもやが、うずを巻くようにたまっていた。それから、寝台のそばの水がめにも。
「……マーク。この水、どこの井戸の水?」
「裏の広場のだ。あんたが前にきれいにしてくれたとこ」
……やっぱり。
前に浄化した井戸が、また汚れ始めている。結界のひびから、瘴気がまたじわじわと滲み出しているんだ。一度払っただけじゃ、追いつかない。
私は、おばあさんの胸に、そっと両手を当てた。
──治って。
やわらかな光が、おばあさんを包む。黒いもやが、ほどけるように消えていく。荒かった息が、だんだん、静かになっていった。
「……ああ。あったかいねぇ……」
おばあさんが、うっすらと目を開けて、笑った。
「……ばあちゃんっ……」
マークが、寝台のふちをつかんだまま、うつむいた。その肩が、小さく震えていた。
◇
でも、それで終わりじゃなかった。
路地に出ると、いつの間にか、人が集まっていた。
熱にうかされた子どもを抱いた母親。咳をしながら壁にもたれるおじいさん。寝たきりの家族を、戸板に乗せて運んできた若い男の人たち。
「……桜色の聖女様だ」
「本当に、治してくれるのかい……?」
「神殿には、金がなきゃ行けねえんだ。お願いだ、うちの子を……!」
十人。二十人。もっと。
私は、ひとりずつ、手を当てていった。
子ども。おじいさん。若い女の人。また子ども。
光が、少しずつ、細くなっていく。手のひらが、じんじんとしびれてくる。それでも、列は終わらない。むしろ、だんだん長くなっていく。
二十三人目の子どもに手を伸ばしたとき、視界が、ぐにゃりと歪んだ。
ふらりと体が傾いて、すかさず、肩を支えられた。
「──お嬢様」
アルだった。
「……大丈夫。あとちょっと……」
「お嬢様」
低い声。丁寧なのに、有無を言わせない声。
「今夜、お嬢様がここでお倒れになれば、明日の朝、この列の後ろに並んでいる方々を、誰が治すのでしょうか」
「……」
「ご自分が何人いらっしゃるつもりで、無茶をなさっているのですか。十二年お仕えしてきましたが、お嬢様は、今のところおひとりしか確認できておりませんが」
……こんなときまで、嫌味だ。
でも、そのとおりだ。
私は、ひとりしかいない。ひとりで全部治そうとしたら、いつか必ず間に合わなくなる。
ゲームの中でも、そうだった。だから私は、九歳のとき、森に入って、光る草を探したんだ。
私がいなくても、治せる方法を。
◇
「──みんな、聞いてください!」
私は、アルに支えられたまま、できるだけ大きな声を出した。
「熱の原因は、井戸の水です。だから、今日から、井戸の水は必ず一度、ぐつぐつ沸かしてから飲んでください。それから、ごはんを食べる前と、病人さんにさわったあとは、きれいな水で手を洗ってください!」
しん、と、路地が静まり返った。
「……沸かす?」
「水をかい? なんでまた」
「手を洗うだけで、病気が治るのかい?」
みんな、きょとんとしていた。
……そうか。
この国では、病気もけがも、治すのは治癒魔法だけだ。治癒魔法があるから、「病気にならないようにする」という考え方そのものが、ちゃんと育ってこなかったんだ。
公爵領では、ゲームの中で、何年もかけて少しずつ広めてきた。でも、王都の北側には、まだ届いていない。
「病気を治すんじゃなくて、病気にならないようにするんです。それと、もうかかってしまった人には、薬を作ります。魔法が使えなくても、飲むだけで治る薬を」
「薬?」
「そんなもん、あるのかい?」
「あります。公爵領では、もう使ってます」
わぁっと、ざわめきが広がった。
「……だが、薬を作るには、人手と場所がいるだろう」
後ろから、落ち着いた声がした。
振り返ると、お兄様が立っていた。いつの間に来たの。しかも、もう手帳を開いて、何かを書きこんでいる。
「お兄様!?」
「マークから知らせを受けて、おまえが飛び出したと聞いた。……無茶をするなら、せめて道を敷かせろと、何度言えばいい」
お兄様は、手帳から顔も上げずに続けた。
「場所は、この先に空き倉庫がある。以前、マークに調べさせた。持ち主には、明日の朝、私が話をつける。薬草は公爵領の倉庫に備蓄がある。人手は──」
「自分たちがいます!!」
路地の入り口から、窓がびりびりしそうな声がした。
トマスさんだった。その後ろには、警護隊の制服を着た若い騎士が、十人ほど。みんな、水桶や薪を抱えている。
「警護隊の、市民出身の連中です! みんな、北側に家族がいるんです! 水を沸かすのも、薪を運ぶのも、自分たちがやります! ローゼンベルク桜色聖女様!」
「名前、また長くなってる……」
でも、笑ってしまった。
笑ったら、目の奥が、じんと熱くなった。
◇
夜が明けるころ。
空き倉庫の中には、大鍋が三つ並んでいた。
ひとつでは、井戸の水がぐつぐつと煮立っている。もうひとつでは、公爵領から運ばれてきた光る薬草が、ことことと煮えている。そして最後のひとつでは……
「お嬢様ーっ! 朝ごはんの芋のスープ、できましたーっ!」
ライザが、おたまを振り回していた。いつの間に来たの。
「病人さんも、お腹がすいてると、悲しいのが倍になりますからね!」
……どこかで聞いたことがあるような、ないような。
倉庫のはしっこに並べられた寝台では、熱の下がった子どもたちが、すうすうと寝息を立てていた。
「……お嬢様。少し、お休みになっては」
倉庫の入り口で、アルが言った。
「うん。……ありがと、アル。昨日、止めてくれて」
「……お礼を言われるようなことは、何も。お嬢様がお倒れになると、運ぶのは私ですので」
「……そこ?」
「そこです」
無表情だった。
でも、朝日が差しこむ入り口で、その口元が、ほんの少しだけ、ゆるんでいた気がした。
……気のせいかな。
胸が、きゅっと、なった。
もう、気のせいには、できなかった。
◇
そのときだった。
倉庫の外から、たくさんの足音が、そろって近づいてきた。
金属と金属がふれあう、硬い音。騎士のよろいの音だ。
アルが、すっと剣の柄に手をかけた。
倉庫の入り口に、白い霧のような一団が現れた。
白い衣の神官が三人。その後ろに、白い甲冑を着た神殿騎士が、十人以上。
先頭の神官が、巻物をゆっくりと広げた。
「──神殿の定めにより申し渡す。女神の許しなく、神殿の外で治癒を行うことは、これを固く禁ずる」
倉庫の中が、しんと静まり返った。
「この場にある薬と称するものは、すべて、神殿が押収する。……ローゼンベルク嬢。そなたには、神殿への同行を求める」




