第二部 まつ毛のゴミ
「……祖父は、何も言わない。それが、いちばん恐ろしい。──ユリウス殿からの伝言だそうだよ」
芋畑を見下ろす東屋で、セドリック殿下は、紅茶のカップを片手にそう言った。
書庫の夜から、三日。
ユリウス様は、無事だった。罰も、叱責もなかった。ただ、イザベラ様を通して届いた、たった一行の伝言だけが、ひどく冷たかった。
「日記のほうは、どうですか」
「ギデオン殿が、切り口を調べてくれたよ。切った刃物に、神殿でしか使われていない聖油が、わずかに残っていたそうだ。……ただし、それだけでは、『神殿の者が古い書物を手入れしただけだ』と言い逃れされる」
「……やっぱり、私にしか読めないのが、弱いんですね」
「そうだね。だから、もう少し、積み上げる必要がある」
殿下は、いつもの完璧な笑顔で、砂糖を三つ入れた。ちゃんと三つ。えらい。
それから、カップを口に運びながら、ふと、私の後ろに目をやった。
東屋の柱のそば。いつものように、アルが控えている。
「……そういえば、護衛くん」
「はい」
「君、最近、ひと言もしゃべらないね」
「…………」
殿下は、にこにこと小首をかしげた。
「……ああ、しゃべれないのか」
しゃべれない?
私は、きょとんとして、殿下とアルを交互に見た。
「アル、喉の具合でも悪いの? それなら、私が治すよ?」
「…………いえ。喉は、健康そのものでございます」
「ふふ。喉ではないんだよ、サラフィーナ嬢。もう少し、下のあたりだね」
「下? おなか?」
「もう少し上」
「……胸?」
殿下は、今日いちばん楽しそうな顔で、ゆっくりとうなずいた。
……胸の病気?
私は、あわててアルのほうを振り返った。
アルは、無表情だった。無表情なのに、なぜか、周りの空気が、真冬の井戸の底みたいに冷えていた。
◇
「お茶のおかわり、お持ちしましたー!」
そこへ、ライザが、ティーポットを抱えて元気よくやってきた。
その瞬間。
すっと、アルが動いた。
「──ライザ」
「はい?」
「まつ毛に、ゴミが」
そう言って、アルは、ライザの顔に、すっと自分の顔を近づけた。
近い。
ものすごく、近い。
黒い前髪が、ライザの額にふれそうなくらい。
「えっ、ほんとですか! 取ってください!」
ライザは、まったく気にしない様子で、ティーポットを抱えたまま、ぎゅっと目を閉じた。
かちゃん。
小さな音がした。
見ると、殿下が、砂糖のスプーンを持ったまま、固まっていた。スプーンから、さらさらと、砂糖がテーブルにこぼれ落ちている。
完璧な笑顔のまま。でも、その笑顔が、まるで凍りついたみたいに、ぴくりとも動かない。
「……取れました」
アルが、すっと顔を離した。
そして、その灰色の瞳が、ゆっくりと、殿下のほうを向いた。
無表情だった。でも、その目は、なぜか、ものすごく勝ち誇っているように見えた。
……何に、勝ったんだろう。
……でも。
その灰色の瞳が、殿下の隣にいた私をとらえた瞬間。
アルが、ほんの一瞬だけ、動きを止めた。
……え?
なんで、私を見て止まるの。
そう思ってから、気づいた。
私も、固まっていた。
紅茶のカップを口元まで持ち上げたまま。殿下と同じように、ぴくりとも動けなくなっていた。
胸の奥で、何かが、ちくりと刺さっている。
……なんで?
アルが、ライザのまつ毛のゴミを取っただけだ。ただそれだけのことなのに。
「わあ、アルさん、ありがとうございます! ぜんぜん気づきませんでした!」
ライザが、まぶしい笑顔でお礼を言った。そして、何事もなかったように、殿下のカップにおかわりを注ぎ始めた。
「あっ、殿下! お砂糖、こぼれてますよ! もう、もったいないですよ、王子様なのに!」
「…………うん。すまない」
殿下は、完璧な笑顔のまま、ゆっくりとスプーンを置いた。
それから、アルのほうを見ずに、小さな声で言った。
「……やるね、護衛くん」
「恐れ入ります」
アルは、もういつもの位置に戻って、完璧な礼をしていた。
「……まつ毛のゴミは、侍女の仕事に差し障りますので。護衛として、見過ごすわけには参りませんでした」
「そうかい。それは、立派な心がけだ」
「ただ、殿下がおこぼしになったお砂糖にまでは、気が回りませんでした。申し訳ございません」
にこにこ。無表情。にこにこ。無表情。
アル、しゃべってる。しかも、いつもの嫌味な丁寧語で。
よかった。いつものアルだ。
……なのに、胸に刺さったとげは、ちっとも抜けなかった。
◇
「……ライザ」
その夜。髪をとかしてもらいながら、私は、つい聞いてしまった。
「さっき、アルが顔を近づけたとき。……どきっとしなかった?」
「えっ、全然ですよ!」
即答だった。
「アルさんはお嬢様の護衛ですし! 小さいころからずーっと一緒ですし、お兄ちゃんみたいなものですよ!」
「……そっか」
ふうっと、肩の力が抜けた。
……あれ。
なんで今、私、ほっとしたんだろう。
ライザがどきっとしても、しなくても、私には関係ないはずなのに。
アルが誰に顔を近づけても、私には、関係ないはずなのに。
──一緒にいると、胸がぎゅってなる人です!
この前のライザの声が、頭の中で、もう一度響いた。
らせん階段の近さ。真っ暗な隠し通路で、背中に聞こえた速い鼓動。そして今日の、胸に刺さった小さなとげ。
……もしかして。
私って。
「お嬢様、お顔が赤いですよ? お熱ですか?」
「ち、ちがう! なんでもない! なんでもないから!」
私は、ぶんぶんと首を振った。
「お嬢様、動かないでください! 髪がからまります!」
◇
こつん、と、窓ガラスが鳴った。
もう、この音がするときは、だいたい一人しかいない。
「……マーク、玄関から来てって言ったよね?」
「悪い。急ぎだ」
窓からすべりこんできたマークは、いつものように息を切らしていた。でも、いつものへらりとした笑顔は、どこにもなかった。
「神殿が、今日から、治癒の寄進を倍にした。『女神の恵みを軽んじる者が増えたため』だとよ」
「倍……!?」
「それだけじゃねえ。北側で、三日前から、熱を出すやつが一気に増えてる。子どもと年寄りばっかりだ。……うちのばあちゃんも、今朝から、起き上がれねえ」
緑の瞳が、まっすぐ私を見た。
「神殿に行っても、もう誰も治してもらえねえ。……あんたしか、いねえんだ」
三日前。
書庫の夜の、次の日だ。
──祖父は、何も言わない。それが、いちばん恐ろしい。
何も言わない代わりに、こういうやり方をする人なんだ。
私は、もう立ち上がっていた。
「──行くよ。今すぐ」
それから、私は、もうひとつ、つけ加えた。
「それと、マーク。……私が行かなくても治せるようにする。今度こそ、本当に」




