第二部 閑話 芋畑の王子様 (セドリック)
第2部 第9話 閑話・芋畑の王子様
笑うのは、得意だ。
物心ついたときには、もうできていた。口元を、ほんの少しだけ持ち上げる。目尻を、ほんの少しだけ下げる。上げすぎても下げすぎてもいけない。いちばん感じよく見える角度と幅を、僕は鏡の前で何度も確かめた。そうすれば、大人たちは安心する。「第二王子殿下は、いつもにこやかでいらっしゃる」と。
褒めるのも、得意だ。
女性は褒めておけばいい。そう教えてくれたのは、家庭教師だったか、兄上だったか。どちらでもいい。一度覚えてしまえば、ただの挨拶だ。「こんにちは」と同じように、口が勝手に動く。
だから、僕は、本当に笑ったことが、あまりない。
──一度だけ、例外がある。
◇
九つのときだった。
その日、僕は、父上が神殿の大神官に、深々と頭を下げるところを見た。
この国でいちばんえらいはずの人が、穏やかに微笑む白い法衣の老人に、頭を下げていた。「母上の病を治していただいたご恩を、王家は忘れてはならない」と。
その年の冬、母上は、もう一度病を得て亡くなった。神殿は、二度目の治癒を、「女神の御心にそぐわない」と断った。
理由は、誰も教えてくれなかった。
ただ、その少し前、父上が神殿の治癒の寄進を減らそうと言い出していたことだけは、覚えている。
……だから、笑うようになったのかもしれない。
笑っていれば、誰も僕の本当の顔を見ない。本当の顔を見られなければ、そこにつけこまれることもない。
◇
公爵家への初めての訪問は、その春だった。
婚約者に会うためだ。ローゼンベルク公爵家の七つになる令嬢。王家と公爵家が決めた、政治の約束。
ところが、応接室に、婚約者はいなかった。
「申し訳ございません、殿下。娘は……その、畑におりまして」
公爵が、本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
畑。公爵令嬢が。
大人たちは、そのまま婚約の段取りの話を始めた。僕は、ずっと笑顔でそれを聞いていた。口元を上げる角度も、目尻を下げる幅も、ひとつも間違えないように。朝から一日じゅう、王宮でも、馬車の中でも、ずっとそうしてきた。
「殿下、すぐに娘を呼んでまいりますので……」
「いいえ。僕が、迎えにいきます」
そう言ったのは、婚約者に早く会いたかったからではない。
ただ、この部屋から出たかっただけだ。
笑うのに、疲れていた。
◇
婚約者は、庭の畑にいるらしい。僕は、屋敷の裏手から、ひとりで庭へ出た。
薔薇園だと、聞いていた。公爵夫人自慢の、王都でいちばん美しい薔薇園。
そこは、一面の、芋畑だった。
……何がどうなって、こうなったんだろう。
緑の葉っぱが、どこまでも続いている。屋敷がどちらにあるのかも、もうわからない。
空は青かった。風が、葉っぱをゆらしていた。
どうしてか、そのとき、母上のことを思い出した。
気づいたら、芋畑の真ん中で、しゃがみこんでいた。
笑うのを、忘れていた。
◇
「──そこ! お嬢様の芋です!」
大きな声がした。
顔を上げると、赤い髪を二つに結んだ、小さな女の子が、自分の背丈より長い鍬を持って、仁王立ちになっていた。
頭には、小さな侍女の帽子。でも、エプロンは泥だらけで、頬にも、鼻の頭にも、そばかすと一緒に泥がついている。
「踏まないでください! その芋、お嬢様がいちばん大事にしてるやつなんですから!」
「……ご、ごめん」
反射的に、謝っていた。
王子として生まれて九年。誰かに怒鳴られたのは、たぶん、生まれて初めてだった。
女の子は、鍬を担いだまま、つかつかと僕の前まで歩いてきた。
そして、僕の顔をのぞきこんで、目をまん丸にした。
「……泣いてるんですか?」
「……泣いてない」
「泣いてますよ。ほら、ここ」
泥だらけの指が、僕の頬を、ちょんとつついた。
泥がついた。たぶん。
「迷子ですか?」
「…………うん」
「じゃあ、ちょっと待っててください」
女の子は、鍬を地面に突き刺すと、エプロンのポケットをがさがさと探った。
そして、何かを取り出すと、ぱかっと、半分に割った。
ふかした芋だった。
まだ少し、あたたかい。
「はい。半分こです」
「……えっ」
「泣くときは、芋を食べながら泣くといいんですよ。お腹がすいてると、悲しいのが倍になるので。……うちの母さんが言ってました」
……うちの母さん。
その言葉を聞いたら、また、目の奥が熱くなった。
僕は、半分の芋を受け取って、かじった。
塩も何もついていない。王宮の料理人が作るものとは、比べものにならない。ほくほくしていて、少しだけ、土のにおいがした。
なのに。
どうしてだろう。今まで食べたものの中で、いちばん、おいしかった。
「……おいしい」
「でしょう! お嬢様の芋は、世界一なんです!」
女の子は、自分のことのように胸を張った。
それから、自分の半分を、大きな口でばくりとかじった。
「あの、あなた、どこの子ですか? 今日は第二王子様が来てるから、よその子は入っちゃだめなんですよ」
「……僕が、その第二王子だけど」
女の子は、芋をくわえたまま、動かなくなった。
それから、ごくんと芋を飲みこんで。
なぜか、もう一度、鍬をつかんだ。
「……王子様でも、芋は踏んじゃだめですからね!」
──そこなのか。
王子だと知って、ひれ伏すでも、青ざめるでもなく。そこなのか。
気づいたら、吹き出していた。
口元を上げる角度も、目尻を下げる幅も、何も考えていなかった。ただ、おなかの底から、勝手に声が出た。
生まれて初めて、何も考えずに笑った。
「……わかった。もう踏まないよ」
「約束ですよ!」
「うん。……君の名前は?」
「ライザです! 厨房のマルタの娘で、侍女の見習いです! いつか、お嬢様の専属の侍女になるんです!」
女の子──ライザは、泥だらけの顔で、にかっと笑った。
その笑顔を、僕は、たぶん一生忘れない。
婚約者に会えたのは、その日の夕方だった。
泥だらけで畑から駆けもどってきたピンクの髪の小さな令嬢は、僕の顔を見るなり、「殿下! 芋の葉っぱの裏に、てんとう虫が七匹いました!」と叫んだ。初めましての挨拶よりも先に。
……たしかに、面白い子だった。ほかのどの令嬢とも違う。身分も釣り合っていて、まっすぐで、元気で。もし先に会っていたら、好きになったかどうかはともかく、きっと僕の心は、あの子に大きく動かされていたのだと思う。
でも、もう遅かった。
その前に、芋畑の真ん中で、僕の泣き顔を見つけた子がいた。
完璧な笑顔の下にあるものを見つけたのは、あの子が初めてだった。王子でも何でもない、泣いている、ただの子どもとして扱ってくれた。
……それだけのことが、九つの僕には、世界がひっくり返るくらいのことだった。
◇
それから、僕は、何度も公爵家を訪れた。
名目は、いつも「婚約者の顔を見に」。
婚約者は、いつも芋畑か、井戸か、森にいて、たいてい泥だらけだった。そして、そのすぐ後ろには、いつも、赤い髪の小さな侍女がいた。
十一の年、砂糖を五つ入れようとしたら、砂糖壺ごと取り上げられた。
十三の年、「王子様、背が伸びましたね! 芋のおかげですね!」と言われた。たぶん、芋は関係ない。
十五の年、あの子は、約束どおり、「お嬢様の専属の侍女」になった。その日、あの子は一日じゅう笑っていて、僕は一日じゅう、その笑顔を見ていた。
いつだったかは、もうわからない。
気づいたときには、もう、どうしようもなかった。
第二王子と、厨房の娘の侍女。そして僕には、あの子の主という、婚約者がいる。
何より。
あの子の心は、いつだって、お嬢様でいっぱいだった。
◇
──「殿下って、本当にお嬢様のことが大好きなんですね!」
──「神殿なんかに、お嬢様を渡しちゃだめですよ! 殿下、がんばってください! 私、応援してますから!」
あの日、砂糖を五つ入れた。
あの子に、五つはだめだと叱られた。
……それでもいい。
あの子が、お嬢様を大切に思うなら。僕は、そのお嬢様を守る。それが、あの子の笑顔を守る、いちばん確かな方法だから。
神殿にも、あの老人にも、もう二度と、大切なものを奪わせない。
……ただ。
守りつづけるだけで、いいのだろうか。
婚約者のお嬢様は、先日、あっさりと言った。「殿下、私のこと、別に好きじゃないでしょう?」。
あのお嬢様は、何もわかっていないようで、ときどき、いちばん大事なことだけ、まっすぐに当ててくる。
いつか。
この婚約が、守りの盾である必要がなくなったら。
あの子に、芋の礼を言おう。九つのあの日の。
……ちゃんと、僕の言葉で。
◇
──それにしても。
僕は、王宮へ戻る馬車の中で、ふと窓の外を眺めながら思った。
あの護衛くん。
神殿の求婚の話が出てからというもの、まるで一言もしゃべらなくなった。もともと無口な男だが、あの嫌味っぽい丁寧語すら、とんと聞かない。
僕は知っている。あの男が、十二年間、誰を見てきたのか。
……九つのあの日から、僕が、誰を見てきたのかを、たぶん、あの男も知っているように。
「……ふふ」
僕は、久しぶりに、口の端をゆるめた。口元の角度も、目尻の幅も、何も考えない笑い方で。
今度、ちょっとだけ、からかってみようかな。




