第二部 書庫からの脱出
「……こちらへ」
ユリウス様が、ランプを片手に、いちばん奥の本棚の前に立った。
棚のいちばん下の段。古い本と本のあいだに手を差し入れて、何かをぐっと引く。
がこん、と、重い音がした。
本棚の横の壁が、ほんの少しだけ、奥へとへこんだ。
「隠し通路……!?」
「子どものころ、ここでよく隠れんぼをしたんです。妹と。……祖父は、たぶん忘れている」
ユリウス様は、無表情のまま言った。でも、「妹と」と言ったときだけ、声が少しだけやわらかかった。
「神殿の裏庭の、古い井戸のそばに出られます。……日記は、お持ちください」
「えっ、でも、これは神殿の……」
「読める者が誰もいない場所に置いておくより、ずっといい。……それに」
ユリウス様は、切り取られたページのある四冊目を、そっと私の腕に押しつけた。
「これ以上、切り取られたくはないでしょう」
廊下の向こうから、足音が近づいてくる。こつ、こつ。ゆったりと。
「……ユリウス様は?」
「私は、残ります」
「でも、それじゃあ……!」
「新月の夜に、神官がひとりで定めを調べていた。それだけのことです。……妹が、北の森でしたのと、同じことをするだけですよ」
イザベラ様。「私が、残るわ」と言って、要石の前にひざまずいた、あの背中。
この兄妹は、二人とも、本当に。
「──お嬢様」
扉が開いて、アルがすべりこんできた。そして、一瞬で部屋じゅうを見回して、壁のへこみに気づいた。
「……通路ですね。参りましょう」
「でも、ユリウス様が……」
「お嬢様」
アルは、日記を抱えた私の腕ごと、そっとつかんだ。
「この方が、ご自分で決められたことです。……無駄にされるおつもりですか」
……それは。
北の森で、イザベラ様に言われたことと、同じだ。
私は、ぎゅっと唇をかんで、ユリウス様に頭を下げた。
「……ありがとうございます。ユリウス様」
「お礼を言われる筋合いは、ありませんよ」
イザベラ様と、まったく同じことを言う。
やっぱり、この兄妹は、似ている。
◇
隠し通路は、狭かった。
狭いというか、ものすごく狭かった。
子どものころのユリウス様とイザベラ様なら、たぶんちょうどいい幅だったんだろう。でも、大人の私と、もっと大人で肩幅の広いアルが並んで通るには、どうしたって、ぎゅうぎゅうだ。
「……お嬢様。日記を抱えたまま、もう少しそちらへ寄っていただけますか」
「これ以上寄れないよ! 壁だよ!」
「では、日記を減らされては。四冊も抱えていらっしゃる」
「全部大事なの!」
「そうおっしゃると思いました」
真っ暗な中で、アルの声だけが、いつもどおりに淡々としている。
「……それと、お嬢様。日記を抱えたまま転ばれて、泥でも付けられましたら、初代聖女様に化けて出られますよ。『絶対読むな』と書いた日記を読まれたうえに、泥まみれにされては」
「なんで知ってるの!?」
「扉の前におりましたので」
……ぜんぶ聞こえてたんだ。
じゃあ、もしかして。
求婚の返事も。
「……アル。もしかして、そのあとの話も……」
「…………」
答えはなかった。
その代わり、闇の中で、アルのいるほうから、ほんの小さな、ゆっくりとした息を吐く音が聞こえた。
ため息じゃなかった。
たぶん、ずっと止めていた息を、ようやく吐いたような、そんな音だった。
「──お嬢様。足元に段差が」
「えっ、わっ!」
言われた瞬間に、つま先がひっかかった。日記ごと、前につんのめる。
地面にぶつかる前に、ぐいと、腰を引き寄せられた。
背中に、硬くてあたたかいものがぴったりとくっついている。
……アルの、胸だ。
どく、どく、と、速い音が聞こえる。たぶん、私のじゃない。いや、私のも。どっちがどっちの音なのか、もうわからない。
「……申し上げたはずです」
頭のすぐ上で、低い声がした。
「日記を抱えたまま転ばれると、と」
「……ちゃんと聞いてたよ。足が、間に合わなかっただけ」
「では次からは、段差の三歩手前で申し上げます」
「……お願いします」
そう言ったのに、腰に回された腕は、なかなか離れなかった。
私も、離して、とは言わなかった。
真っ暗でよかったと、生まれて初めて思った。
◇
そのとき。
通路の壁の、どこか小さなすきまから、声がもれてきた。
書庫の、声だ。
「──ユリウス」
穏やかな、老人の声。
アルの腕が、ぴたりと固まった。私も、息を止めた。
「新月の祈りを抜けて、こんなところで何をしていたのかね」
「……定めを、確かめていました。王家に答えを示すには、元となる書物を、この目で見ておくべきだと思いましたので」
「そうか。……それで、何か、見つかったかね」
少しの、間。
「……いいえ。何も。私には、古い神の字は読めませんので」
嘘は、ついていない。
ユリウス様は、本当に、自分では読めない。
でも、切り取られたページのことも、もう私が読んだことも、ひとことも言わなかった。
「そうか。なら、いい」
穏やかな声だった。
なのに、その声を聞いた瞬間、背中が、すうっと冷たくなった。
「……ところで、ユリウス。扉の前の床に、うっすらと泥がついているね。神官の靴ではない。……騎士の、重い靴の泥だ」
……っ。
ユリウス様は、答えなかった。
答えないまま、長い沈黙が流れた。
「……まあ、よい。今夜は、休みなさい」
足音が、ゆったりと遠ざかっていく。
そして、その足音が、もうほとんど聞こえなくなったころ。
それは、独り言のように、小さく、でもはっきりと聞こえた。
「──あの小娘。あの女と、同じ目をしている」
あの女。
五十年前、若い神官だったこの人の求婚を断った、おばあちゃん。
闇の中で、アルの腕が、私を抱える力を、ほんの少しだけ強くした。




