第二部 みことのにっき
「……『絶対に、読むな』」
ユリウス様が、くり返した。
「……はい」
「百年以上、神殿が『古い神の言葉』として守ってきた書物の、最初の一行が。『絶対に、読むな』」
「……はい」
ランプの火の向こうで、ユリウス様の無表情が、ほんの少しだけ、ひきつった気がした。
……ごめんなさい、初代聖女様。でも、読まないと帰れないんです。
私は、心の中で一度だけ手を合わせてから、そっと表紙をめくった。
◇
【今日、異世界に来た。まじで。神様の名前がスラーシュ。言いにくい。三回噛んだ。】
「……ぶっ」
吹き出しそうになって、あわてて口を押さえた。
「……何と、書いてあるのですか」
「えっと……『本日、この世界に参った。女神の御名を、三度、口にした』……みたいな、感じです」
「…………そうですか」
嘘は言っていない。たぶん。
私は、紙をめくっていった。
【ご飯の味がしない。塩がない。醤油もない。死ぬ。】
【スラーシュに文句言ったら、泣いた。神様なのに。ごめん。】
【海のほうに、塩を作るところを作った。えらい。私。】
【騎士のローゼンが、私の作ったおにぎりを毎日全部食べる。自分の分だけにして。】
【ローゼンが、今日も全部食べた。もう知らん。】
……だめだ。おもしろすぎる。
初代聖女様──ミコトさんは、たぶん、私よりずっと元気な人だ。地震も大雨も、みんな笑いとばしてしまいそうな、そんな字だった。
そして、一個だけ、気になる単語があった。
「騎士のローゼン」。
ローゼン。
……ローゼン。ローゼンベルク。
いや、まさかね。
◇
一冊目が終わり、二冊目、三冊目。
どの冊も、大体はごはんの話と、ローゼンさんの話と、スラーシュの話だった。でも、その合間に、だんだんと、この国の始まりの話が混ざり始めた。
【北の森に、結界を張った。スラーシュと一緒に。疲れた。】
【神殿ができた。祈りの場所。スラーシュが、ひとりぼっちじゃないように。】
そして、四冊目。
その中の、あるページで、私の手が止まった。
【神官たちが、聖女は神殿の人と結婚しろって言ってきた。はあ? 誰と結婚するかは、私が決める。絶対いや。私はローゼンと結婚する。】
【決まりを作った。「聖女の結婚は、聖女自身が決める。神殿は、口を出してはならない」。神官にも読めるように、こっちの文字でも書いておいた。えらい。私。】
心臓が、どくんと鳴った。
聖女の結婚は、聖女自身が決める。
神殿は、口を出してはならない。
──『聖女の婚姻は、神殿が定める』じゃない。
真逆だ。
「……ユリウス様」
声が、少し震えた。
「『聖女の婚姻は、神殿が定める』っていう定め。……初代聖女様が作ったのは、反対の定めです」
ユリウス様が、息をのんだ。
「『聖女の結婚は、聖女自身が決める。神殿は口を出してはならない』。……神官たちが、神殿の人と結婚しろって言ってきたから、怒って作ったんだって。それで、自分は騎士のローゼンさんと結婚するって」
「……証拠は」
ユリウス様の声は、低かった。
「その字を読めるのは、あなただけだ。あなたが嘘をついていないと、誰が証明できる」
「……それは」
そうだ。私にしか読めない。私が「そう書いてある」と言っても、オルドヴィン様は「偽の聖女の作り話だ」と笑うだけだ。
でも。
【神官にも読めるように、こっちの文字でも書いておいた。】
「……こちらの字でも、書いておいたって。神官にも読めるように。……次のページに!」
私は、あわてて紙をめくった。
次のページは、なかった。
紐でとじられたところに、紙の切れはしだけが、きれいに、まっすぐに残っていた。
刀で切り取ったように。
──王宮の書庫の五十年前の記録。結界を張った日の記録だけが、何枚も、きれいに切り取られているんだ。
セドリック殿下の言葉が、頭の中で重なった。
ランプの火が、ゆらりと揺れた。
ユリウス様が、その切れはしをじっと見下ろしていた。
無表情だった。いつものように。でも、ランプを持つ手が、小さく震えていた。
「……切り取られているのは、神官にも読める字で書かれたページだけ、ということですね」
「……はい」
「読める者が誰もいない、古い神の字のページは、そのまま残して。……読めてしまうページだけを」
ユリウス様は、そこで言葉を切った。
それから、ゆっくりと、目を閉じた。
「……証拠は、ありますよ。サラフィーナ嬢」
「えっ」
「この切り口そのものが。……何も書かれていないページを、わざわざ切り取る者はいない」
彼は、目を開けた。
紫の瞳が、ランプの火を映して、ゆらゆらと揺れていた。
「……私は、子どものころから、この書庫の扉の前で、祖父に教わってきたんです。神殿の定めは、初代聖女が女神から授かったもの。ひとつも間違いはないと」
その声は、いつものように淡々としていた。
淡々としすぎて、かえって、痛かった。
◇
「……サラフィーナ嬢」
しばらくして、ユリウス様が、もう一度私を呼んだ。
「約束の、もうひとつを。……求婚のお返事を、いただけますか」
どきりとした。
忘れていたわけじゃない。でも、この流れで、今。
──あなたの心が決めなさい。
大叔母様の声。
私は、自分の心に、そっと聞いてみた。
ユリウス様は、いい人だ。妹思いで、不器用で、本当のことを、自分の目で確かめようとする人。たぶん、嫌いになる理由は、ひとつもない。
でも。
この人といて、胸がぎゅっとなるかと聞かれたら。
らせん階段の、あの近さを、また思い出しそうになって、あわてて首を振った。
「……ごめんなさい」
ユリウス様の紫の瞳が、わずかに揺れた。
「今は、お返事できません。……いい加減な気持ちで、『はい』も『いいえ』も、言いたくないんです。ユリウス様が、ちゃんと本当のことを確かめようとしてる人だって、わかったから」
ユリウス様は、しばらく黙っていた。
それから。
ほんの少しだけ、口の端をゆるめた。
初めて見る、この人の、笑顔のようなものだった。
「……正直な方だ。では、保留ということで」
「保留、でいいんですか?」
「祖父には、『返事はもらえなかった』とだけ伝えます。嘘ではありませんので」
この人、ちょっとだけ、お兄様に似ている。
そう思った、そのとき。
こん、こん、こん。
扉を叩く音がした。三回。短く、小さく。何かを知らせる合図のように。
「──お嬢様」
扉の向こうから、アルの低い声がした。
「祈りの歌が、止まりました。……廊下の奥から、足音がいくつも。こちらに向かっています」
ユリウス様の顔から、すうっと血の気が引いた。
「……新月の祈りは、夜明けまで続くはずです」
「ですが、止まりました」
扉の向こうで、アルの声が、ほんの少しだけ、いつもの調子に戻った。
「……お嬢様。日記の続きが気になるのは当然と存じますが。今は、読むのではなく、抱えて走るところかと」
……こんなときまで、嫌味だ。
でも、その嫌味で、なぜか少しだけ、膝の震えがおさまった。
廊下の奥から、こつ、こつ、と、足音が近づいてくる。
その先頭の足音だけが、ひどくゆったりとしていた。
まるで、何も急ぐ必要などないと、わかっているみたいに。




