第二部 新月の夜へ
塔のらせん階段を下りる途中で、私は気づいた。
前を歩くアルの右手から、ぽた、ぽたと、赤いものが落ちている。
「アル! 手!」
「……かすり傷です」
「かすり傷は、そんなに血が出ないよ!」
さっき握りつぶしたガラス瓶だ。あたりまえだ。素手でガラスを握りつぶしたら、けがをするに決まっている。
アルは、右手をさっと背中に隠した。
「お嬢様のお手を、わずらわせるほどのものではありません」
「わずらうかどうかは、私が決めるの!」
私は、二段上から手を伸ばして、アルの腕をつかんで引き止めた。振り向かせて、背中に隠された手を、むりやり引っぱり出す。
大きな手だった。
手のひらに、ガラスのかけらで切った傷が、三つ。そしてそのまわりに、古い傷あとがいくつもあった。剣だこも。硬くて、ごつごつしている。
六歳の私の泥だらけの手を、ていねいにふいてくれたのも、この手だ。
熊の魔物の前に立ったのも。狼の牙から私を引き倒したのも。大聖堂で、杯を包む私の手に重ねられたのも。
ぜんぶ、この手だ。
──治って。
これは瘴気じゃない。ただの切り傷だ。だから、浄化じゃなくて、治癒。
手のひらがあたたかくなる。やわらかい光が、アルの手を包む。切り口が、ゆっくりとふさがっていく。
ふと、顔を上げる。
アルが、じっと私を見下ろしていた。
灰色の瞳が、すぐそこにあった。らせん階段は狭くて、二段上に立っている私と、背の高いアルの目の高さが、ちょうど同じくらいになっている。
……近い。
なんだか、すごく、近い。
「……お嬢様のお力を、私などに」
「『私など』じゃないよ」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
「アルは、『私など』じゃない」
アルの灰色の瞳が、ほんの少しだけ、揺れた。
光が消えて、傷は全部ふさがっていた。それでも、しばらく、私はその手を離せなかった。
「……ねえ、アル。さっき、なんで瓶、割ったの?」
「……手が、すべりました」
「嘘だ。アルの手がすべるところ、十二年で一回も見たことないもん」
アルは、黙った。
それから、すっと、私から目をそらした。
「……『二人きりで』と、聞いて」
小さな声だった。
でも、すぐに、いつもの声に戻った。
「──護衛として、承服しかねる、という意味です」
アルは、私の手から、そっと自分の手を抜き取った。
「……お手をわずらわせました。ありがとうございます、お嬢様」
そして、何事もなかったように、また階段を下り始めた。
私は、その場に立ちつくしていた。
さっきまでアルの手を握っていた自分の手が、なぜか、じんじんと熱かった。
……治癒の、せいだよね。
たぶん。
◇
「却下だ」
「却下だ!」
その夜の食堂。お兄様とお父様の声が、きれいにそろった。
「公爵家の娘を、新月の真夜中に、神殿の奥で、男と二人きりにだとぉぉぉ!?」
「そもそも、あの男が鍵を貸すという話自体が、罠でないという保証はない」
お母様が、にこにこしながら、スープを飲んでいる。大叔母様は、黙ってお茶を飲んでいる。いつもの光景だ。
「……でも、初代聖女の書物を読めるのは、たぶん私だけです。それに、定めが嘘だってわかれば、婚約を取り消す理由もなくなる。……そうでしょう?」
お兄様が、ぐっと言葉に詰まった。
「……理屈としては、そうだ」
「理屈の話をしているんじゃないぞ、ルーカス!」
「……グレン」
大叔母様が、カップをかちゃりと置いた。
「行かせなさい」
「叔母上……!」
「ただし、サラ。ひとつだけ約束しなさい」
灰色がかった青い瞳が、まっすぐ私を見た。
「求婚の返事は、家のためでも、神殿のためでも、あの娘さんのためでもなく。……あなたの心が決めなさい。あの人も、そうしたわ」
あの人も。
五十年前、若い神官の求婚を断って、おじいちゃんを選んだおばあちゃん。
「……はい」
◇
「お嬢様って、ユリウス様のこと、好きなんですか?」
寝る前。髪をとかしてくれながら、ライザが、けろりとした顔で聞いた。
「えっ、えっ!?」
「だって、求婚のお返事、するんでしょう? 好きなら『はい』で、好きじゃなかったら『いいえ』じゃないんですか?」
「そんな単純な……いや、単純なのかな……」
好きかどうか。
ユリウス様のことを、思い浮かべる。無表情で、淡々としていて、でも妹のことになると、取っ手を握る指が白くなる人。いい人だと思う。嫌いじゃない。でも。
「……ライザ。好きって、どういうの?」
「えーっとですねぇ」
ライザは、くしを持ったまま、うーんと天井を見上げた。
「一緒にいると、胸がぎゅってなる人です! その人のためなら、なんでもしたくなっちゃう人です!」
「ライザには、いるの? そういう人」
「いますよ! お嬢様です!」
「そういうのじゃなくて……」
後ろで、ライザがけらけら笑っている。たぶん、この子には当分、そういう人はいない。……殿下、かわいそうに。いや、殿下は関係ないか。
一緒にいると、胸がぎゅってなる人。
ふっと、らせん階段の、あの近さを思い出した。灰色の瞳。大きな、傷だらけの手。「『二人きりで』と、聞いて」という、小さな声。
胸が、きゅっと、なった。
……いやいやいや。
あれは、アルがけがをしてたから。心配だったから。それだけ。
私は、ぶんぶんと首を振った。
「お嬢様、動かないでください! 髪がからまります!」
◇
十日後。
新月の夜は、本当に真っ暗だった。
月のない空の下、王都いちばん高い丘の上で、神殿だけがぼうっと白く浮かび上がっている。大聖堂のステンドグラスの向こうから、かすかに、祈りの歌が流れてくる。
神殿の裏手。小さな木の扉の前で、銀色の髪が待っていた。
「……お待ちしていました、サラフィーナ嬢」
ユリウス様は、いつもの白い神官の衣ではなく、地味な灰色の外套を羽織っていた。
その手には、古い鈍色の鍵が、ひとつ。
「護衛殿も、ご一緒ですね」
「……書庫の中には、入りません。そういう約束ですので」
私の後ろで、アルが低い声で言った。
「ただし、扉の前で、お待ちしております。……何かあれば、扉を壊してでも入ります」
「……その扉は、三百年前から伝わる、神殿の宝なのですが」
「存じております」
無表情と、無表情。
灰色と、紫。
……ここだけ、すごく寒い。
◇
細い通路を抜けて、長い廊下を、いくつも曲がった。
やがて、ユリウス様が、ひとつの扉の前で立ち止まった。
重たそうな、黒い木の扉。表面には、羽を広げた小鳥の紋章が、大きく彫られている。
「……奥の書庫です」
鍵が、がちゃりと回った。
扉の前で、アルが、剣の柄に手をかけたまま、壁に背をつけた。
目が合う。何も言わない。でも、「ここにいます」と、その目が言っていた。
私は、小さくうなずいて、扉の中へ足を踏み入れた。
古い紙のにおいがした。
ユリウス様が、手にしたランプをかかげる。ゆらゆらと揺れる火に照らされて、天井まで届く本棚が、奥へ、奥へと、どこまでも続いていた。
「初代聖女の書物は、いちばん奥の棚です。……誰も読めないまま、百年以上、そこにある」
いちばん奥の棚。
そこには、他の本とは、まるで違う形のものが並んでいた。
薄くて、紐でとじられた、紙の束。それが、何十冊も。
そのうちのいちばん端の一冊を、そっと手に取る。
表紙には、墨で、大きな字が書かれていた。
少しだけくせのある、勢いのいい、ひらがな。
【みことの にっき そのいち】
そしてその下に、もう一行。
【ぜったい よむな!!】
「…………」
「サラフィーナ嬢? 何と書いてあるのですか」
「……えっと。……初代聖女様の、日記。その一。です」
「それだけですか。もう一行、あるようですが」
私は、そっと、目をそらした。
「……『絶対に、読むな』。です」




