第二部 魔術師団の塔
王宮の西のはしっこに、ひょろりと高い塔がある。
王宮魔術師団の塔だ。
外から見ると、古いけれど立派な石の塔。でも、いちばん上の窓からだけ、なぜかもくもくと紫色の煙が上がっていた。
「……お兄様、あれって大丈夫なやつ?」
「魔術師団の塔のいちばん上は、いつも何かしら煙を吐いている。王都では有名な話だ」
「つまり、いつも大丈夫じゃないってことだよね?」
お兄様は、答えなかった。
後ろで、アルが無言で剣の柄に手をかけた。たぶん、煙を斬るつもりはないと思う。たぶん。
◇
らせん階段を、百二十段。
息を切らしてたどり着いたいちばん上の部屋は、ひとことで言うと、ごちゃごちゃだった。
壁という壁に、天井まで届く本棚。入りきらない本が、床の上で塔のように積み上がっている。大きな机の上には、ガラスの瓶、石、石、石。その真ん中で、紫の煙を吐く小さな鍋が、ことことと煮えていた。
そして、その鍋のすぐ横で。
ギデオン様が、机につっぷして寝ていた。
「……鍋、火、ついてるよね?」
「ついているな」
「寝てるよね?」
「寝ているな」
お兄様と私は、顔を見合わせた。
その瞬間、鍋が、ぼふっ、と大きな音を立てて、紫の煙のかたまりを吐き出した。
「わっ!」
とっさに目をつぶった私の前に、さっと黒い背中が立ちふさがった。アルだ。片手で私を背中にかばいながら、もう片方の手で、机から転がり落ちそうになったガラス瓶を、ひとつ、ふたつ、みっつと受け止めていく。
……すごい。曲芸みたい。
「むぃ……おや。もう来ていたのかね」
煙の向こうで、ギデオン様が、しょぼしょぼと目を開けた。もじゃもじゃの白い髪が、煙でうっすらと紫色になっている。
「いやあ、すまない。魔石を煮ていたら、ついうとうとしてね」
「魔石って、煮るものなんですか……?」
「ふつうは煮ないね」
即答だった。
アルが、受け止めた瓶を三つ、無言で机の上に並べ直した。その背中から、ものすごく何か言いたそうな空気が、もうもうと立ちのぼっていた。煙より濃い。
◇
「では、ちょっとだけ試してみようかね」
煙がおさまると、ギデオン様は、小さなガラスの皿を私の前に置いた。
皿の中には、うっすらと濁った水。鑑定の目で見ると、薄い黒いもやが、ゆらゆらと漂っている。
「北側の井戸の水を、少しだけもらってきたんだ。これを浄化してみてくれるかね。僕は、その光の『癖』を見たい」
うなずいて、皿にそっと両手を当てる。
──きれいになって。
手のひらがあたたかくなって、水が、きらりと光った。もやが消えて、濁りがすうっと澄んでいく。
ギデオン様は、丸いレンズを皿の上にかざして、じっとのぞきこんでいた。
長いあいだ、ずっと。
「……ふむ」
「どうですか?」
「やっぱり、あの人と同じ癖だ」
ギデオン様は、レンズから目を離さずに言った。
「五つの、丸い花びら。しかも、あの人のより、ほんの少しだけ、花びらが小さくて、やわらかい。……不思議だね。光の癖というのは、本来、ひとりひとり違うものなんだ。こんなに似ているのは……」
ギデオン様は、そこでふと言葉を切った。
「……まるで、血がつながっているみたいだね」
どきり、とした。
心臓が、喉のあたりまで跳ね上がった気がした。
だって、つながっているから。本当に。おばあちゃんと、私は。
でも、それは言えない。言ったら、私がどこから来たのか、全部話さなきゃいけなくなる。
「……ふふ。まあ、そんなはずはないか。あの人には、こちらに家族はいなかったんだからね」
ギデオン様は、のんびりと笑って、レンズをポケットにしまった。
……助かった。
でも、しまう瞬間、その薄い緑の瞳が、ほんの一瞬だけ、私の髪を見た気がした。
……この人、本当に、寝てばっかりのおじいさんなのかな。
◇
こんこん、と、扉を叩く音がした。
「……失礼いたします」
入ってきたのは、イザベラ様だった。
淡い藤色のドレス。百二十段のらせん階段を上ってきたはずなのに、息ひとつ乱れていない。さすが。
「イザベラ様!」
「ごきげんよう、サラフィーナさん。……それから」
イザベラ様は、お兄様のほうを向いて、きちんと礼をした。
「……ローゼンベルク様。お手紙、拝見いたしました」
「……ああ。急なお願いをして、すまなかった」
「いいえ。……丁寧なお手紙でしたわ。段取りが、とても細かく書いてあって」
「……そうか」
「細かすぎて、三度読み直しましたわ」
「…………そうか」
……なんだろう。
二人とも、少しも笑っていないし、会話もすごく丁寧なのに。
どうしてか、そこだけ、空気が、少しだけふわふわしている気がする。
「おや。……おやおや」
ギデオン様が、白い眉毛をくいっと上げて、うれしそうにつぶやいた。
……なにが「おや」なんだろう。
◇
「神殿の書庫のことだけれど」
イザベラ様は、本の塔のあいだにかろうじて空いていた椅子に腰を下ろすと、声を落とした。
「初代聖女の書物があるのは、書庫のいちばん奥。『奥の書庫』と呼ばれていて、高位神官しか入れないわ。……私でさえ、扉の前までしか行ったことがない」
「じゃあ、どうやって……」
「新月の夜」
イザベラ様は、きっぱりと言った。
「月に一度、新月の夜にだけ、神殿の神官はみんな大聖堂に集まって、一晩じゅう祈りを捧げるの。お祖父様も例外じゃない。その夜だけは、書庫には誰もいなくなるわ」
「次の新月は……」
「十日後だ」
お兄様が、即座に答えた。たぶん、もう調べてあったんだ。
「でも、奥の書庫の扉には、鍵がかかっているのよね?」
「ええ。……鍵を持っているのは、お祖父様と……もうひとりだけ」
イザベラ様は、そこで少しだけ言いよどんだ。
「……兄様よ」
部屋が、しんとした。
「……ユリウス様が、手を貸してくれるとは、思えないが」
お兄様が、低い声で言った。
「……私も、そう思っていたわ」
イザベラ様が、ゆっくりと顔を上げた。
「でも。──ここに来る前に、兄様に、話したの」
「……えっ」
「そうしたら、兄様は言ったわ。『鍵は貸す。ただし、条件がある』って」
紫の瞳が、まっすぐに私を見た。
その紫は、少しだけ、申し訳なさそうに揺れていた。
「新月の夜、奥の書庫には、あなたと兄様の、二人だけで入ること。……そして」
イザベラ様は、ひとつ息を吸った。
「その夜に、求婚のお返事を、いただきたいそうよ」
その瞬間。
後ろで、ガラス瓶が、ひとつ、ぱりんと割れる音がした。
振り返ると、アルが、さっき受け止めて並べたはずの瓶を、ひとつだけ、握りつぶしていた。
無表情で。
「……失礼いたしました。手が、すべりました」
すべっただけで、瓶って割れるものなのかな。
「……おや。おやおやおや」
ギデオン様が、今日いちばんうれしそうな声を出した。




