第二部 泣き虫の魔術師
王宮魔術師団の団長は、玄関で寝ていた。
「……セドリック殿下。この方が……?」
「うん。馬車に乗ったとたんに寝て、着いても起きなかったんだ。しかたないから、御者と二人でここまで運んだ」
玄関ホールの長椅子の上で、ひょろりと長いおじいさんが、すうすうと寝息を立てていた。
もじゃもじゃの白い髪。たっぷりとした白い眉毛。着ている紺色のローブには、あちこちインクのしみがついていて、ポケットというポケットが、小さな石やレンズでぱんぱんにふくらんでいる。
……この人が、王国で一番えらい魔術師。
「……ギデオン殿。着きましたよ」
殿下が肩をゆすると、おじいさんは「むぃ……」とうなって、目を半分だけ開けた。薄い緑色の瞳が、ねぼけたように天井をさまよう。
「……そうかね……もう着いたかね……では、もう五分だけ……」
「起きてください。聖女どのの前ですよ」
その一言で。
おじいさんの目が、かっと開いた。
ぴょん、と長椅子から飛び起きて、あちこちに髪をはねさせたまま、きょろきょろとあたりを見回す。
そして、私を見つけた。
いや、正確には、私の髪を。
薄い緑の瞳が、みるみるうちに、大きく見開かれていった。
「……ああ」
かすれた声が、こぼれた。
「ああ。……エドガー様の、色だ」
その瞬間、おじいさんの目から、ぼろっと大粒の涙がこぼれた。
「えっ、えっ!?」
「ああ……ああ、すまない、すまない……年をとると、涙もろくてね……いや、昔からだったかな……」
おじいさんは、ローブの袖でごしごしと目をこすった。そのひょうしに、ポケットから小さな石が、ころころと床に転がり落ちた。
あ、たぶん、この人が、大叔母様の言っていた「泣き虫」だ。
「……失礼した。王宮魔術師団、団長のギデオンと申す」
ようやく涙を拭き終えたおじいさん──ギデオン様は、すっと背筋を伸ばして、深々と頭を下げた。
「五十年、お待ちしておりました。……聖女様」
◇
こつん、と、杖の音がした。
階段の上に、大叔母様が立っていた。
いつもより、ほんの少しだけ、よそ行きの服を着ている。髪も、いつもより丁寧に結い上げられている。
ギデオン様が、顔を上げた。
そして、動かなくなった。
大叔母様も、動かなかった。
玄関ホールの大時計が、こち、こち、と秒を刻む。
「……ヒルダ、ちゃん」
ギデオン様の声が、ふるえていた。
大叔母様の眉が、ぴくりと動いた。
「……『ちゃん』は、やめなさい。六十にもなって」
「そ、そうだね。すまない。ヒルダ……さん」
「それも気持ち悪いわ」
「では、何と……」
「普通に呼びなさいよ。……泣き虫」
そう言って、大叔母様は、階段を一段ずつ下りてきた。こつん、こつん、と杖をついて。
そして、ギデオン様の前に立ち止まると、そのもじゃもじゃの白い髪についていた糸くずを、ひょいとつまんで取った。
「……相変わらず、だらしないこと」
「……うん」
「そのたびに、あの人に直してもらっていたのにね」
「……うん」
ギデオン様の薄い緑の瞳から、また涙があふれだした。
「……すまなかった、ヒルダ」
「何がよ」
「五十年、会いに行けなかった。……あの日、僕は北の森にいた。あの人が結界を張るところも、エドガー様があの人を庇うところも、この目で見ていたんだ。……なのに、何もできなかった」
ギデオン様の骨ばった手が、ローブの裾をぎゅっと握りしめていた。
「神殿が『聖女は逃げた』と発表したときも。僕は嘘だと知っていたのに、十二の子どもの言うことなんて、誰も聞いてくれなかった。……いや、それも言い訳だ。大人になってからも、僕はずっと、黙って研究に逃げていた」
「…………」
「君に会えば、それを話さなきゃいけない。だから、会いに行けなかった」
大叔母様は、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……私もよ」
「……え」
「私も、あなたに会えば、あの日のことを話さずにはいられないと思った。だから、会わなかった。……お互いさまよ、泣き虫」
大叔母様は、私のほうを、そっと振り返った。
「でも、もういいのよ。……これからは、言えばいい。今度は、ちゃんと聞いてくれる人が、ここにいるんだから」
ギデオン様が、泣きながら、私を見た。
私は、大きくうなずいた。
「聞きます。全部。……だから、教えてください」
後ろで、セドリック殿下が、めずらしく何も言わずに、窓の外を見ていた。たぶん、気を使ってくれている。
◇
「では、これを見てもらおうかね」
応接室のテーブルの上に、ギデオン様が、ポケットから紫色の石をひとつ取り出して置いた。
北の森の、要石のまわりの箱に入っていた、あの魔石だ。
もう涙は拭いていた。その代わり、薄い緑の瞳が、さっきまでとはまるで別人のように、きらきらと輝いている。
「魔石というのは、力をためておく器だ。ただし、ためた力には、その力を生んだ術式の『癖』が残る。筆跡のようなものだね」
ギデオン様は、ポケットから丸いレンズを取り出して、石の上にかざした。
「ごらん。神殿の術式の癖は、四角い。きっちりと角ばって、すきまがない。……だが、この中にためられた力の癖は」
レンズの向こう。
紫の石の奥で、小さな光の粒が、ゆらゆらと漂っていた。
そのひとつひとつが、五つの、丸い花びらの形をしていた。
「……桜だ」
思わず、つぶやいていた。
「さくら?」
「あ、えっと、そういう花があるんです。たぶん、どこか遠い国に」
「……そうか。あの人の名前と、同じ響きだね」
ギデオン様は、何も聞かずに、ただやさしく目を細めた。
「これは、神殿の術式じゃない。五十年前、あの人が張った結界の、そのものの力だ。……僕は、この癖を、五十年ずっと忘れなかったよ」
だから。
だから、「五十年待った」だったんだ。
「そして、ここからが、大事なところだ」
ギデオン様は、レンズを置いた。
「北の森の箱にあった魔石は、ぜんぶで二十三個。だが、そこにためられていた力を合わせても、五十年分の結界の力には、まるで足りない。ごく一部だ」
「……じゃあ、残りは?」
「神殿が、治癒に使ってしまった分もあるだろう。だが、それだけでは計算が合わない。……五十年分の、あの人の力の大半は、たぶん、まだどこかにためこまれている」
セドリック殿下が、小さくつぶやいた。
「……神殿の、宝物庫か」
「たぶんね」
ギデオン様は、うなずいた。
「その力を、要石に返すことができれば。あの人の結界は、きっと、もう一度よみがえる。……ただし、それができるのは、あの人と同じ光を持つ者だけだ」
薄い緑の瞳が、まっすぐに私を見た。
大聖堂で、杯の魔石の中から、おばあちゃんの光を呼び戻したときのことを、思い出した。
「……私に、できるんですね」
「あなたにしか、できないんだよ」
◇
帰り際。
馬車に乗りこむ前に、ギデオン様は、ふと立ち止まって、北の空を見上げた。
夕焼けの中。細く残る、あの黒いひび。
「……それと、もうひとつだけ。気になることがあるんだ」
さっきまでのきらきらした目ではなかった。もっと静かで、もっと、ひっそりとした目だった。
「結界のひびの入り方が、おかしい。要石から力を吸われて弱っただけなら、ひびは根元の内側から入るはずだ。……だが、あのひびは、外側から入っている」
「外側から……?」
「結界の外から、何かが、押しているんだ」
ギデオン様は、北の空から目を離さなかった。
「……五十年前。あの人の光に押し返されていった、あの熱いものと、同じような何かがね」




