第二部 閑話 苦労人の段取り(ルーカス)
私の妹は、無茶をする。
これは意見ではなく、十八年分の観察にもとづく事実だ。
生まれてすぐにミルクを拒否し、三歳で井戸を浄化させ、五歳で母上自慢の薔薇園を芋畑にした。庭師のハンスは、その日、本当に一度気を失った。起き上がって最初に言った言葉は「芽が……出てる……」だった。
父上は、そのたびに頭を抱え、母上は笑い、大叔母上は何も言わずにお茶を飲む。
そして、後始末をするのは、だいたい私だ。
後始末は嫌いではない。ただ、自分が止めても無駄だと、早いうちに学んだだけだ。
あの子の無茶は、止められない。
ならば、無茶が無駄にならないように、先に道を敷いておくほうが早い。
◇
「……下町の少年、か」
市場から戻った夕方。書斎で、私はアルフレッドの報告を聞いていた。
「はい。果物売り、水売り、新聞売りと、三度変装してお嬢様をつけてきた者です。名はマーク。舞踏会でお嬢様が救われた騎士の、弟だと名乗りました」
「三度も。……何度目で気づいた?」
「一度目です」
「サラは?」
「三度目で、ようやく」
だろうなと思った。
「……それと、もうひとつ。その少年は、『見ているのは俺だけじゃない』と言い残して去りました。その直後、屋根の上に、神殿の衣が」
私は、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
舞踏会で浄化した。神殿に呼ばれた。そして今度は、下町で尾行された。
あの子の無茶は、もう始まっている。そして今回は、芋畑では済まない。
「……アルフレッド。そのマークという少年、使えると思うか」
彼は、少しだけ考えてから答えた。
「……お嬢様を見る目に、悪意はありませんでした。疑いは、ありましたが」
「それで十分だ」
◇
警護隊の名簿をめくるのに、二日かかった。
王立学院の同期が、警護隊の事務方にいたのは幸運だった。「公爵家の跡取りが、なんで下っ端の騎士の名簿なんか」といぶかしがられたが、学院時代に彼の論文を三本手伝った貸しを、ここで返してもらった。
北の森の討伐で腕を失いかけた、市民出身の騎士。トマス。弟の名はマーク。住まいは、王都の北側。
北側。
ミレーユ嬢が言っていた、井戸の水で体を壊す者が出ているあたりと、重なる。
……どうせ、あの子はそこに行きたがる。
ならば、先にそこを知る者を、味方につけておくべきだ。
◇
北側の酒場は、狭くて、暗くて、ゆがんだ床につま先が引っかかった。
私は、一番地味な外套を羽織って、一番地味な帽子をかぶってきた。だれがどう見ても、どこにでもいる商人の若旦那だ。そのはずだ。
「……あんたさあ」
窓際の席で、茶色いくせ毛の少年が、あきれた顔で頬杖をついていた。
「貴族だろ。しかも、あのお嬢様んとこの」
「……なぜわかった」
「眼鏡の拭き方が違う。あと、座る前に椅子をハンカチで拭いただろ。そんなやつ、この店には一人もいない」
……兄妹そろって、変装には向いていないらしい。
私は帽子を取って、少年の向かいに座った。
「ルーカス・ローゼンベルクだ。単刀直入に言う。君を雇いたい」
「……はあ?」
「王都の北側の事情に詳しくて、神殿の家屋の影を避けて動ける者が必要だ。報酬は、これだけ出す」
私は、書いてきた紙を卓の上で滑らせた。
少年は紙に目を落として、緑の瞳を少しだけ見開いた。
「……これ、多すぎじゃねえか」
「警護隊の日当と、下町の職人の日当をもとに計算した。そのうえで、夜勤と危険手当を上乗せした。……少ないと言われたら、計算をやり直すつもりだったが」
「…………」
少年は、しばらく紙と私の顔を交互に見ていた。
「……なんでだよ」
「何がだ」
「公爵家の跡取りが、なんでそこまでする。影で尾行してた俺を、わざわざ自分で探しに来て、こんな汚い酒場で、椅子拭いてまで」
「……妹が、無茶をするからだ」
私は、理屈どおりに答えた。
「あの子の無茶は、止められない。だから、無茶が無駄にならないように、先に道を敷いておく。そのほうが、後始末より早い。……それだけだ」
少年は、ぽかんと口を開けていた。
それから、ぶっと吹き出した。
「……あんたんとこの兄妹、どうなってんだよ。片っぽは『具合悪そうだったから』で兄貴の腕治して、もう片っぽは『妹が無茶するから』で俺を雇いに来る」
「……それは、答えと受け取っていいのか」
「いいよ。──あんた、ただもんじゃねえな」
少年は、紙を自分の懐にしまった。
「ただし、ひとつだけ。俺はまだ、あんたんとこのお嬢様を信じたわけじゃねえからな」
「結構だ。信じるかどうかは、あの子を見て決めればいい」
……そして、あの子を見た者は、たいてい、あの子を放っておけなくなる。
それも、十八年分の観察にもとづく事実だ。
◇
北の森でのことは、あまり思い出したくない。
いや、正確には、思い出すと、自分の行動に説明がつかない箇所がある。
あのとき、イザベラ嬢の顔色は、明らかに悪かった。瘴気を「感じる」という彼女にとって、あの森は、冬の湖に飛びこむようなものだっただろう。
倒れられたら、日没までに戻れない。
だから、上着をかけた。それは、理屈として正しい。
説明がつかないのは、そのあとだ。
かけたあと、私は、振り返らずに歩き出した。振り返る理由はなかった。なかったはずだ。
なのに、しばらく、背中に視線を感じていた。そして、その視線がどんなものなのか、確かめるのが、なぜか、ひどく恐ろしかった。
……理屈に合わない。
だから、あまり思い出したくない。
◇
書斎の机の、上から二段目の引き出しには、一通の手紙がしまってある。
洗って返されてきた上着に、添えられていたものだ。
大したことは書いていない。丁寧な礼の言葉が、細くてきちんとした字で、数行。それだけだ。
三度読んだ。
いや、正確には四度だ。三度目は、字の癖を観察するために読んだので、数に入れない。
……それは、何のために?
自分に問いかけて、答えが出ないまま、私は引き出しを閉めた。
机の上には、王宮の書庫から持ち出した五十年前の記録の写しが、山になっている。『聖女の婚姻は神殿が定める』。その定めの出どころを探して、もう三日、ほとんど眠っていない。
王宮の書庫には、ない。
あるとすれば、神殿の書庫だ。
そして、そこに足を踏み入れられるのは、神殿の者だけだ。
私は、新しい紙を一枚取り出した。
宛名を書く前に、少しだけ、ペンが止まった。
これは、段取りの話だ。
妹の婚約を守るための、神殿の定めの真偽を確かめるための、最も合理的な方法だ。彼女は神殿の書庫を知っていて、しかも、一度、私たちの共犯者になってくれた人だ。
理屈として、正しい。
……正しいのだから、手が少し震える理由は、どこにもないはずだ。
私は、ゆっくりと、宛名を書いた。
──イザベラ嬢へ。




