第二部 王宮の天秤
王宮の「議の間」は、舞踏会の大広間よりずっと小さくて、ずっと息苦しかった。
細長い部屋のいちばん奥に、国王陛下。その左右に、王族と重臣たちが並んでいる。向かい合うように、大きな大きな卓が二つ。片方には神殿の白い衣が、もう片方には貴族たちが座っていた。
私は、お父様とお兄様に挟まれて、貴族の卓の端に。
向かいの神殿の卓には、オルドヴィン様と、その隣にユリウス様がいた。
大聖堂のあの日から、初めて見るオルドヴィン様は、何事もなかったように、穏やかに微笑んでいた。
──笑っていたのよ。穏やかに。
大叔母様の声を思い出して、私は、自分の手をひざの上でぎゅっと握った。
◇
「では、申し上げます」
オルドヴィン様が、ゆっくりと立ち上がった。
「先日の大聖堂にて、女神スラーシュは、ローゼンベルク嬢を聖女としてお示しになりました。すばらしいことです。……ならばこそ、聖女は、女神のもの。王家のものでも、公爵家のものでもない」
穏やかな声が、部屋じゅうにしみわたっていく。
「初代聖女の時代より伝わる定めに従い、神殿は、ローゼンベルク嬢とセドリック殿下の婚約の取り消しを、ここにお願いいたします」
ざわ、と貴族の卓が揺れた。
「異議あり。……と、言いたいところだけれどね」
王族の席から、ゆったりとした声がした。
セドリック殿下だった。いつもの完璧な笑顔。けれど、膝の上で組んだ指に、ぎゅっと力がこもっているのが見えた。
「その定めが、実際に『初代聖女の時代から』伝わっているものなのか。王宮の書庫を探しても、そのような記録は見つからなかったよ」
「王宮の書庫には、無いでしょうな」
オルドヴィン様は、少しも動じなかった。
「聖女に関わる定めは、すべて神殿の書庫に納められております。初代聖女ご自身の記された、古い神の字の書物とともに。……もっとも、その字を読める者は、この百年、誰もおりませんが」
……古い神の字。
要石の下に刻まれていた、ひらがな。大叔母様が五十年持っていた、おばあちゃんの手紙。
初代聖女の書物も、同じ字だとしたら。
私には、読めるかもしれない。
ちらりと、セドリック殿下がこちらを見た。たぶん、同じことを考えている。
◇
「……それにしても」
貴族の卓の、真ん中あたりから、太った伯爵が声を上げた。
「神殿と事を構えるのは、いかがなものか。うちの妻は、毎年冬になると胸を悪くする。そのたびに神殿の治癒にすがっているのだ」
「わが家もだ。息子の足の古傷は、神殿でなければ治せん」
「公爵家の令嬢ひとりのために、神殿の怒りを買うのは……」
ひそひそと、でもはっきりと、声が広がっていく。
……そうか。
これが、神殿の本当の力なんだ。
治癒魔法。聖魔法の使い手は少ない。だから、病気やけがを治してもらえる場所は、神殿しかない。大切な人の命を握られているから、誰も逆らえない。
貴族だけじゃない。王家も、市民も。
だから、トマスさんは「金が足りない」と断られても、文句も言えなかった。
「──静粛に」
国王陛下の声が、部屋を静かにした。
「神殿の申し入れは、確かに受け取った。ただし、その定めが真に初代聖女のものであるか、王家としても確かめたい。……答えは、ひと月後に出そう」
「御意に」
オルドヴィン様は、深々と頭を下げた。
その一瞬。
上げた顔が、私のほうを向いて、にこり、と微笑んだ。
──ひと月。せいぜい、あがいてみなさい。
声には出していない。でも、そう言われた気がした。
◇
議の間を出て、長い回廊を歩いているときだった。
「……サラフィーナ嬢」
柱の影から、銀色の髪がのぞいた。
ユリウス様だった。
私の後ろで、アルが、音もなく半歩前に出た。
「……少しだけ、お時間をいただけますか。護衛殿の前でかまいません」
アルは何も言わなかった。ただ、その場から一歩も動かなかった。
私は、思い切って口を開いた。ずっと、聞きたかったことだ。
「ユリウス様は、私と結婚したいんですか?」
ユリウス様の紫の瞳が、ほんの少しだけ、見開かれた。
「……したいかどうかは、関係ありません」
「関係ありますよ。結婚って、そういうものでしょう?」
ユリウス様は、しばらく黙っていた。
それから、回廊の窓の外に、目をやった。その先には、王都いちばんの高い丘の上に立つ、白い神殿が見える。その奥に、細くて高い塔が一本。
祈りの塔だ。
「……あなたが神殿に来れば。祖父は、もう妹を、あの塔に閉じこめる理由をなくす」
「……え」
「聖女候補に、用はなくなるのですよ。本物の聖女が、神殿に入るのですから。……あの子は、もう祈らなくていい。弱いと責められなくていい。小さいころからずっと、そうしてやりたかった」
淡々とした声。
でも、窓の外を見つめるその横顔は、応接室で求婚したときとは、まるで違っていた。
……この人も。
この人も、妹を守りたかったんだ。
祖父に逆らえないまま、自分にできる、たったひとつのやり方で。
「……ユリウス様」
「同情は結構です」
ユリウス様は、すっと私に向き直った。もう、いつもの無表情だった。
「私は、あなたを利用しようとしている。それだけのことです。……お返事を、お待ちしています」
完璧な礼をして、ユリウス様は回廊の奥へ消えていった。
その背中を見送りながら、ふと気づいた。
……私を利用しようとしている人は、たぶん、自分からそうは言わない。
後ろで、アルが、小さく息を吐いた。それが何のため息なのかは、わからなかった。
◇
「ローゼンベルク桜色聖女様が、神殿の者とご結婚!?!?」
王宮の門を出たところで、大きな声がした。
警護隊の制服を着たトマスさんが、門の前で仁王立ちになっていた。その横で、マークが頭を抱えている。
「自分は、反対です! 断固反対です! 聖女様は、聖女様の求める方と、お幸せになられるべきです!!」
「トマスさん、声……あと、名前がどんどん長くなってる……」
「兄貴、王宮の前だぞ。頭冷やせ」
マークが兄の腕を引っ張っている。でも、トマスさんは少しも動かない。大きいから。
「……トマス殿」
私の後ろで、アルが口を開いた。
「はっ!」
「……その件については。……私も、同意見です」
え。
私も、マークも、そろってアルを見た。
アルは、もういつもの無表情で、まっすぐ前を向いていた。
「……護衛としての、意見ですので」
「アルフレッド殿! わかってくださると!」
「……握手は、結構です」
差し出されたトマスさんの大きな手を、アルはちらりとも見なかった。
……なんだろう。今日のアル、やっぱり、ちょっと変だ。
◇
その夕方。
公爵家に戻ると、玄関でセドリック殿下が待っていた。いつの間に先回りしたんだろう。
「やあ。ちょうどよかった」
「殿下、今日こそ先触れを……」
「君に、会わせたい人がいるんだ」
殿下は、今日いちばんの、いや、たぶん今まででいちばんの、楽しそうな顔をしていた。
「王宮魔術師団の団長だ。北の森で押さえた魔石を、今、彼が調べている」
「魔術師団……」
「変わり者でね。会議中に平気で居眠りをするし、研究以外のことには、まるで興味を示さない。……その彼が、君の話を聞いたとたん、待ちきれないと言って、目をしょぼしょぼさせながら頭を下げてきたんだ」
殿下は、そこで少しだけ、声を落とした。
「──『五十年、待った』、とね」
廊下の奥で、杖の音が、こつん、と止まった。
「……やっぱり。あの泣き虫ったら」
振り返ると、大叔母様が、額に手を当てて立っていた。
「大叔母様、魔術師団長さんと、お知り合いなんですか?」
「知り合いも何も」
大叔母様は、小さくため息をついた。
「五十年前、兄上とあの人のあとを、いつもちょこちょこついて回っていた、泣き虫の見習い魔術師よ。私よりふたつ年上のくせに、転んではべそをかいて、あの人に頭をなでてもらっていたわ」
「泣き虫……」
会議中に平気で居眠りをする、変わり者の魔術師団長。その人が、泣き虫の見習い。全然想像がつかない。
「……でもね」
大叔母様は、窓の外に目をやった。北の空。まだ細く残っている、あの黒いひびのほう。
「あの日から、一度も会っていないの。同じ王都にいながら、五十年。……会えば、あの日のことを、話さずにはいられないもの」
杖を握るしわだらけの手が、ほんの少しだけ、震えていた。




