第二部 求婚の波紋
応接室の時計の音だけが、やけに大きく聞こえた。
片膝をついたユリウス様。その紫の瞳が、まっすぐに私を見上げている。
結婚。
けっこん。
頭の中で何度くり返しても、意味がうまく入ってこない。
「……あの、ユリウス様」
「はい」
「私、婚約者がいるんですけど……」
「存じております。セドリック殿下ですね」
ユリウス様は、片膝をついたまま、少しも表情を変えなかった。
「だからこそ、申し込みに参りました。──聖女の婚姻は、王家ではなく、神殿が定める。初代聖女の時代から伝わる、古い定めです」
「古い、定め……」
「エルディアで聖女が現れたのは、この百年でサラフィーナ様が二人目。しばらく使われなかった定めですが、定めは定めです。神殿は近いうちに、王家に対して、あなたとセドリック殿下の婚約を取り消すよう、正式に申し入れます」
淡々とした声。
求婚というより、まるで、書類を読み上げているみたいだった。
……あ、そっか。
これ、恋の話じゃないんだ。
神殿から王家への、挑戦状だ。この人は、それを届けに来ただけ。
そうわかったら、少しだけ心臓が落ち着いた。
代わりに、背中の後ろから、ものすごく冷たい空気が流れてきた。
ちらりと振り返る。
アルが、立っていた。いつものように、まっすぐ前を向いて。表情は、いつもどおりの無表情。
ただ、剣の柄にかけた手の指が、微動だにせずに添えられていた。
動いていないのに、なぜか、ものすごく怖かった。
◇
「婚約者のいる娘に、求婚だとぉぉぉ!?」
応接室の扉が、ぶち破られる勢いで開いた。
お父様だった。その後ろに、お母様とお兄様と、杖をついた大叔母様。たぶん、扉の外で全部聞いていた。
「ローゼンベルク公爵。突然のご無礼を、お許しください」
ユリウス様は、すっと立ち上がって、完璧な礼をした。
「許さん! 娘は、娘は、つい先日まで二日も眠っていたんだぞ! それもこれも、おまえたちの一族のせいで! その娘に、よりにもよって、求婚だと!?」
「父上、落ち着いてください」
お兄様が、いつものように止めた。でも、その声は、いつもより三度くらい冷たかった。
「……ユリウス殿。それは、あなた自身の意志ですか。それとも、オルドヴィン様のご意向ですか」
ユリウス様は、ほんの一瞬だけ黙った。
「……私は、神官です。神殿の意向は、私の意向です」
「そうですか」
お兄様は、眼鏡の奥の目を、すっと細めた。
「では、答えは、こちらも家としてお返しします。……それと、あなたの妹殿は、お元気ですか」
「……おかげさまで。ご心配いただき、ありがとうございます。ローゼンベルク卿」
ぴりっ。
お兄様とユリウス様のあいだで、また空気が小さな音を立てた。
ユリウス様は、金の封蠟をした白い封筒を、テーブルの上に置いた。羽を広げた小鳥の紋章。神殿からの、正式な文書だ。
「お返事は、ひと月のうちに。……失礼いたします」
扉に向かう途中で、ユリウス様はアルの前を通った。
ほんの一瞬、二人の視線がぶつかった。
紫と、灰色。
どちらも、何も言わなかった。
……何も言わないのに、応接室の気温が、また三度くらい下がった。
◇
「取り消しなど、させないよ」
次の日。言うまでもなく先触れなしにやってきたセドリック殿下は、芋畑を見下ろす東屋で、にっこりと微笑んだ。
笑顔は、いつもどおり完璧だった。ただ、ティーカップを置く音だけが、いつもより少しだけ硬かった。
「君との婚約は、何があっても維持する。神殿が何を申し入れてこようと、だ」
「……殿下」
「何かな」
「そんなに、私と結婚したかったんですか?」
殿下の笑顔が、ほんの一瞬だけ、固まった。
その向こうで、ライザがお茶を注いでいる。「殿下、お砂糖は三つまでですからね!」と、そちらはそちらで元気に宣言している。
殿下の青い瞳が、ちらりとそちらへ流れて、それから私に戻ってきた。
「……そういうことに、しておこうか」
「またそれ!?」
「殿下って、本当にお嬢様のことが大好きなんですね!」
ライザが、カップを置きながら、まぶしい笑顔で言った。
「神殿なんかに、お嬢様を渡しちゃだめですよ! 殿下、がんばってください! 私、応援してますから!」
「…………ありがとう。侍女殿」
殿下は、完璧な笑顔で答えた。
完璧な笑顔のまま、お砂糖を、五つ入れた。
「あっ、殿下! 五つはだめだって言ったじゃないですか!」
「……今日は、五つ飲みたい気分なんだ」
なんだろう。殿下が、ちょっとだけかわいそうに見えた。
◇
ライザがおかわりを取りに行くと、殿下は声を落とした。
「……真面目な話をしよう。もし今、君との婚約を解けば、どうなると思う?」
「……私が、神殿に取られる。ですか?」
「そうだ。王家は、『聖女の婚姻は神殿が定める』という定めに、正面からは逆らえない。婚約者のいない聖女なら、あっという間に神殿の者に嫁がされる。……そうなれば、君の力は、一生、あの一族のものだ」
大聖堂で、杯に吸い取られていった光を思い出して、背中がぶるりと震えた。
「だから、解かない。君を守るためには、この婚約がいちばん丈夫な盾になる」
「……殿下は、それでいいんですか?」
「うん?」
「だって殿下、私のこと、別に好きじゃないでしょう?」
殿下が、めずらしく、本当にめずらしく、きょとんとした。
「……そこは、わかるんだね」
「わかりますよ。殿下の褒め言葉、『こんにちは』と同じですもん」
「…………」
殿下は、しばらく黙って私を見ていた。それから、ふっと、いつもとは違う笑い方をした。
「君は、本当に面白いね。……うん。いいんだ。君を守ることは、この家を守ることだから」
この家。
殿下は、ライザが去っていった廊下のほうを、一瞬だけ見た。
……やっぱり殿下、うちの家族のこと、すごく大事にしてくれてるんだな。
私は、ひとりで感動した。
◇
その夜。
「……お嬢様、アルさん、昨日から一言もしゃべってませんよ」
寝る支度を手伝ってくれながら、ライザがこっそり言った。
「えっ」
「さっきも訓練場で、ひとりで素振りしてました。もう三時間くらい。剣が風を切る音が、ぶん、ぶんって、厨房まで聞こえてきて、料理長が怯えてました」
……三時間。
私は、そっと扉を開けた。
やっぱり、いた。壁に背をつけて、まっすぐ前を向いて。
「……アル。怒ってる?」
「怒っておりません」
「怒ってるじゃん」
「怒っておりません」
同じ言葉を、同じ声で、二回。
それから、アルは少しだけ、視線を落とした。
「……お嬢様がどなたと結ばれようと。私は、護衛としてお仕えするだけですので」
ちくり、と。
胸の奥で、小さなとげが刺さった気がした。
なんでだろう。アルは、いつもどおりのことを言っただけなのに。
「……そっか。おやすみ、アル」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
扉を閉めて、私はしばらく、その場に立ちつくしていた。
とげは、なかなか抜けなかった。
◇
「……そう、あの定めを持ち出してきたのね」
次の朝。大叔母様は、窓辺でお茶を飲みながら、静かに言った。
「大叔母様、知ってるんですか?」
「知っているも何も。……五十年前にも、神殿は、まったく同じことを言ったのよ」
大叔母様は、カップをそっとソーサーに戻した。
「『聖女は、神殿の者と結ばれるべし』。……そう言って、あの人にも、求婚した若い神官がいたわ」
「……え」
「あの人は、断った。兄上のことが、好きだったから。……その神官の、断られたときの顔を、私は今でも覚えているわ」
大叔母様の灰色がかった青い瞳が、私をまっすぐ見た。
「笑っていたのよ。穏やかに。……今のあの人と、同じ顔で」
背筋が、すうっと冷たくなった。
「その神官の名前は。──オルドヴィンよ」




