第一部 ただいま
夢を見ていた。
学校の中庭の、あのベンチだった。
三月の風はもう冷たくなくて、どこからか桜の花びらがひらひらと舞っている。隣には、制服姿の紬が座っていた。
「おつかれさま、サラ」
「……紬」
これは夢だ。たぶん。でも、紬の声は、本当にそこにいるみたいに、あたたかかった。
「結界は、ほんの少しだけ繕い合わされたわ。あなたが、あの人の光を連れて帰ってきてくれたから」
「でも、全部じゃないんでしょう」
「ええ。要石のひびは、まだそのまま。魔石に吸われた光も、まだたくさん、どこかにあるわ」
紬は、舞い落ちてきた花びらを、そっと手のひらで受け止めた。
「……ねえ、サラ。ひとつ、謝らせて」
「謝る?」
「公爵家なら動きやすい、なんて言ったけれど。……あれは、嘘だったの」
紬は、花びらを見つめたまま、小さな声で言った。
「あの人には、この世界に家族も、帰る場所もなかった。私が、ひとりぼっちで呼んでしまったから。……だから今度は、どうしても、あなたを、あなたのおじいさまの家に生まれさせてあげたかったの」
花びらが、風にさらわれて、ひらりと飛んでいく。
「……そっか」
胸の奥が、ぎゅうっと、あたたかくなった。
お父様。お母様。お兄様。大叔母様。公爵家のみんな。
偶然じゃなかったんだ。紬が、私にぜんぶ、くれたんだ。
「……紬。それ、謝ることじゃないよ」
「え?」
「ありがとう、だよ。こういうときは」
紬は、きょとんとして、それから、唐揚げを食べたときと同じ顔で、ふわりと笑った。
「……ふふ。やっぱり、あなたに声をかけてもらえて、よかったわ」
桜の花びらが、視界いっぱいに広がっていく。
「また、神殿で会いましょう。──おかえりなさい、聖女様」
◇
目を開けると、天蓋つきのベッドの上だった。
「……お、お嬢様ぁぁぁぁっ!!」
いきなり、赤毛のかたまりが飛びついてきた。
「ラ、ライザ……くるし……」
「二日ですよ、二日! お嬢様、二日も目を覚まさなかったんですよ! 私、もう、もう……うわああん!」
ライザが、子どもみたいに声を上げて泣いている。その声を聞きつけたのか、廊下からばたばたと足音が近づいてきた。
「サラ!!」
お父様が、扉をぶち破る勢いで飛びこんできた。その後ろに、お母様とお兄様。さらにその後ろで、大叔母様が杖をついて、ゆっくりと、でもいつもより少しだけ速い足取りでやってきた。
「父は……父はもう……!」
「父上、ハンカチです。これで三枚目です」
お兄様が、いつものようにハンカチを差し出す。でもその眼鏡の奥の目も、少しだけ赤かった。
……あ。
やっぱり。紬が言ってたとおりだ。
私がいなくなったら、この家の誰かが泣く。たぶん、全員。
「……ただいま」
そう言ったら、お父様が、もう一枚ハンカチを必要とした。
◇
審問のあとのことは、お兄様が、いつものようにてきぱきと教えてくれた。
「魔石が弾けたあと、オルドヴィンは『聖杯の不具合だ』と言い張った。だが、外廊の民の証言、北側の貴族たちの言葉、私が持ち帰った魔石のかけら。それに、弾けた聖杯の台座そのものが、何よりの証拠だった」
「それで、どうなったの?」
「陛下は、神殿の魔石をすべて、王家直属の魔術師団に調べさせるとお決めになった。……魔術師団長のギデオン殿は、なぜか大喜びだったそうだ」
「大喜び?」
「『五十年待った』と、会議の席で居眠りから飛び起きて叫んだらしい」
……どんな人なんだろう。
大叔母様が、なぜか「あの泣き虫ったら」と小さくつぶやいて、額を押さえていた。
「ただし」
お兄様の声が、少しだけ低くなった。
「オルドヴィンは、まだ大神官のままだ。五十年かけて積み上げた神殿の力は、一度の審問で崩れるほどやわじゃない。……それに、王都にはまだ、『五十年前の聖女は逃げた』と信じている者も多い」
「……うん」
わかっている。
一度光ったくらいで、五十年分の恨みが、全部消えるわけじゃない。
「それと、……イザベラ嬢は、罪を解かれた」
お兄様は、何でもないように付け足した。それから、上着の内ポケットから、一通の手紙を取り出した。
「おまえ宛てだ。……私宛てのは、もう読んだ」
「お兄様にも来たの!?」
「……上着が、洗って返ってきただけだ」
お兄様は、すっと目をそらして、眼鏡を押し上げた。
私宛ての手紙には、細くて、きちんとした字で、たった一行。
『ありがとう。これからもよろしく。──共犯者より』
◇
「……それでさ、お嬢様」
午後。少しだけ起き上がれるようになった私の部屋に、マークが窓から入ってきた。
「だから窓から入ってこないでって……」
「玄関は人だかりで入れねえんだよ。……今、門の前に、何人いると思う?」
「え?」
「北側の連中だよ。花とか、芋とか、パンとか持って、お礼に来てんだ。うちのばあちゃんもいる」
マークは、窓ぶちに腰かけて、しばらく黙っていた。
それから、そっぽを向いたまま、ぼそっと言った。
「……ばあちゃんに、怒られたよ。五十年、わたしも騙されてたけど、おまえも、自分の目で確かめもせずに聖女様を恨んでたのかい、って」
「……マーク」
「だから、まぁ、その、なんだ。」
マークは、がしがしと頭をかいた。
「……信じてやるよ。聖女様」
それは、初めてマークが、嫌味じゃなく、その呼び方をした瞬間だった。
「……うん。ありがと、マーク」
「いいって。……じゃあな。兄貴が花束持って玄関で叫んでるから、止めてくる」
マークは窓からひょいと飛び降りていった。
遠くから、「ローゼンベルク聖女様ーっ! ご快復おめでとうございますーっ!」という大きな声が聞こえてきた。
◇
夕方。
ライザがお茶の支度をしに部屋を出ていくと、入れ替わりに、扉が少しだけ開いた。
「……お嬢様。お加減は」
アルだった。破れた正装は、もう新しいものに替わっている。でも、目の下に、うっすらと青い影があった。
「もう大丈夫。……アル、ちゃんと寝た?」
「護衛ですので」
「それ、答えになってないよね」
「…………」
さっき、ライザがこっそり教えてくれた。「アル様、二晩とも、お嬢様の部屋の扉の前から一歩も動かなかったんですよ」って。
それを言ったら、たぶん「記憶にございません」って言うんだろうな。
「……アル。あのとき、手、離さないでいてくれて、ありがとう」
アルは、少しだけ目を見開いた。
それから、いつものように完璧な礼をしようとして、途中で、やめた。
「……お約束したことですので」
ふっと、ゆるんだ。
灰色の瞳が。口元が。
ほんの一瞬だけ。見間違いかと思うくらい、たった一瞬だけ。
……え。
今、笑った?
「アル、今──」
「お嬢様」
聞き返すより早く、アルの顔は、もういつもの無表情に戻っていた。
「玄関に、お客様がお見えです。……お嬢様に、どうしてもお会いしたいと」
「お客様?」
アルの声が、わずかに、硬かった。
◇
応接室には、銀色の髪の青年が立っていた。
ユリウス様だった。
この前と同じ、一筋のしわもない神官の衣。この前と同じ、少しも動かない表情。
でも、その手には、白い布で包んだ、小さなものを持っていた。
「……先日は、忘れ物をお返しそびれましたので」
布を開くと、桜色の髪が、そこにあった。
「それから。妹を、救っていただいたお礼を」
ユリウス様は、深く、頭を下げた。
それから、顔を上げて、まっすぐに私を見た。
「……そして、もうひとつ」
紫の瞳が、わずかに揺れた。
「神殿と、祖父オルドヴィンの名において、申し上げます。──聖女は、神殿の者と結ばれるべし。それが、古くからの定めです」
え。
ユリウス様は、片膝をついた。
「サラフィーナ嬢。……私との、結婚を申し込みに参りました」
応接室が、しんと静まり返った。
私のすぐ後ろで。
アルの剣の柄が、かちゃりと、小さな音を立てた。
(第一部 終わり)




