第一部 桜色の空
──手を離すな。
その声が、ぼんやりしかけていた頭の奥を、まっすぐに貫いた。
離すな。
そうだ。おじいちゃんは、あのときそう言ったんだ。おばあちゃんに。要石から手を離すな、って。おまえは世界を守れ、って。
そしておばあちゃんは、結界を張った。
この国を包む、桃色の光を。
──あれほどの力を、結界などに使って。
オルドヴィン様の声が、よみがえる。
この人は、五十年かけて、その光を吸い取ってきた。要石から、魔石へ。そして今、この杯の台座にも、同じ魔石が埋めこまれている。
だったら。
この中にも、あるはずだ。
おばあちゃんの光が。
◇
私は、目を閉じた。
引きずられていく自分の光を、止めようとするのを、やめた。
代わりに、その光の先をたどった。
細い糸をたどって、紫の石の奥へ。もっと奥へ。
暗くて、冷たくて、狭い場所だった。たくさんの光が、そこに閉じこめられて、ひしめき合っている。
その中に。
ひとつだけ、あたたかい光があった。
桃色の。桜の花びらみたいな、やさしい色の。
小春日和の縁側みたいに、ぽかぽかと、なつかしい光。
──おばあちゃん。
心の中で、呼んだ。
──おばあちゃん。いるんでしょう。そこにいるんでしょう。
──帰ろう。一緒に。世界を、守りにいこう。
桃色の光が、ふるりと震えた。
そして。
私の光に、そっと、寄りそってきた。
小さいころ、布団の中で、ぴったりくっついて。お尻をぽんぽんしながら、「むかしむかし」と話してくれたときの、あの手のあたたかさで。
◇
「──お嬢様!!」
背中に、強い手が触れた。
目を開ける。アルだった。
神官たちの壁を、どうやって押しのけたのかわからない。正装の肩が破れて、髪が乱れている。後ろで、神官が何人か床に尻もちをついていた。
「申し上げたはずです」
アルは、私の背中を支えながら、杯を包む私の両手の上に、自分の手を重ねた。大きくて、あたたかい手だった。
「お嬢様の手が届くところまで、私が必ずお連れすると。……離しません。絶対に」
──手を離すな。
あの声と、アルの声が、重なって聞こえた。
「……うん。離さない」
そのとき、もうひとつ、細くて冷たい指が、私たちの手の上に重なった。
手首に、切れた銀の鎖がぶら下がっている。
「……共犯者でしょう、私たち」
イザベラ様だった。
なんで。鎖が。
視線の端で、祭壇の前に立つユリウス様が、小さな剣をそっと鞘に戻すのが見えた。表情は、やっぱり少しも動いていなかった。
でも、その紫の瞳は、まっすぐに妹を見つめていた。
◇
──きれいになって。
いや、違う。
──帰ってきて。
私の光と、アルの手のあたたかさと、イザベラ様の小さな光。それが、紫の石の中へ、今度は自分から流れこんでいく。
そして、そこに閉じこめられていた桃色の光を、そっと包む。
ぴしっ。
小さな音がした。
台座の魔石に、ひびが入っていた。
ぴしっ。ぴしっ。ひびが、広がっていく。そのすきまから、桃色の光が、あふれ出してくる。
「──な、にをっ……!?」
オルドヴィン様の穏やかな笑顔が、初めて、崩れた。
ぱりん、と。
魔石が、弾けた。
光が、あふれた。
私の手から、杯から、弾けた石のかけらから。桃色の光が、波になって、大聖堂いっぱいに広がっていく。
杯の中の黒いもやが、その波にふれた瞬間、朝の霧みたいに溶けて消えた。
光は止まらなかった。
天井へと昇って、ステンドグラスを桃色に染めて、その向こうの空へと、ひろがっていく。
◇
大聖堂じゅうが、息をのんでいた。
誰も、しゃべらなかった。
ただ、ひとり、またひとりと、空を見上げていた。
外廊の柵の向こうで。
マークのすぐ後ろに立っていた、腰の曲がったおばあさんが、震える手で口元を押さえた。
「……この光だよ」
かすれた声が、静まり返った大聖堂に、不思議なほどよく響いた。
「五十年前、北の空が光ったあの日。あたしゃあ、子どもを抱いて、この光を見たんだ。……この色だよ。間違いないよ。これは、聖女様の光だよ」
「……ばあちゃん?」
マークが、振り返った。
「だって、ばあちゃん、聖女は逃げたって……じいちゃんは、聖女に捨てられたって……」
「神殿は、そう言ったよ。だから、みんなそう信じた。……でもね、マーク」
おばあさんは、空を見上げたまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「あの日、戦を終わらせたのは、神殿の光じゃない。この光だったんだよ」
ざわ、と。
波が広がるように、外廊の人たちが、口々につぶやき始めた。
「……うちのじいさんも、同じこと言ってた」
「北の空が、桃色になったって……」
「それに、あのお嬢様だろ。うちの井戸を治してくれたの。夜中に、光る手で……」
その声は、だんだん大きくなって、やがて、貴族たちの席にも届いていった。
王族の席で、国王陛下が、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。
◇
ふらり、と、体が傾いた。
もう、力がちっとも残っていなかった。
倒れる前に、あたたかい腕が、私を受け止めた。
「……お嬢様」
「えへへ……アル。できたよ」
「ええ。……ご立派でした」
いつもの、丁寧な言葉。
でも、その声は、ほんの少しだけ、震えていた。
重たいまぶたを、なんとか持ち上げる。
ステンドグラスの向こうの空が、やさしい桃色に染まっていた。
北の空に走っていた、あの黒いひびが、ほんの少しだけ、細くなっているのが見えた。全部じゃない。でも、たしかに。
──おばあちゃん。少しだけ、帰れたね。
祭壇の女神像が、ふっと、微笑んだような気がした。
それを確かめる前に、私の意識は、ゆっくりと、あたたかい腕の中へ沈んでいった。




