熊の魔物と小さな先生
東の村の子どもは、私が行くまで熱が下がらなかった。
九歳の私がアルフレッドに抱えられて馬車を飛び降り、小さな家に駆けこむと、ベッドの上で男の子がぐったりしていた。鑑定の目で見ると、胸のあたりが黒くにごっている。
《治癒しますか?》
画面に手をかざすように、ゲームの中の私が両手を男の子の胸に当てる。やわらかな光がふわりと広がって、黒いにごりが溶けていった。
男の子のまぶたが、ゆっくりと開く。
『……おかあ、さん?』
お母さんが、男の子を抱きしめて泣き崩れた。何度も何度も、私に頭を下げながら。
画面を見つめながら、私はバイト先の休憩室で、ちょっとだけ泣いた。
◇
でも、問題がひとつあった。
私の治癒は、私がその場に行かないと使えない。
公爵領は広い。熱を出した子どもが一人なら走っていける。でも十人、百人だったら? 私がたどり着く前に、間に合わない人がきっと出る。
「私がいなくても、治せる方法……」
そこで目をつけたのが、森だった。
鑑定の目で森を歩くと、草むらのあちこちが、ちかちかと光って見える。光っている草を摘んで、屋敷の厨房で煮たり混ぜたりしてみる。最初はただの苦い緑の汁だったけど、何度も失敗して、十歳の冬、ようやくできた。
小瓶に入った、淡く光る回復薬。
魔法が使えない人でも、飲むだけで熱が下がり、傷がふさがる薬。
『サラ』
回復薬の小瓶を前にして、お父様が真剣な顔で私を呼んだ。隣のお母様も、いつになく静かだ。
『おまえの力のことは、家の外では誰にも話してはいけないよ』
『どうして?』
『……大切な娘を、誰にも取られたくないからだ』
お父様はそう言って、私をぎゅっと抱きしめた。
その腕が、ほんの少し震えていた。
◇
十一歳になると、私は町に遊びに行くようになった。もちろん、アルフレッドつきで。
町の子どもたちは、字が読めなかった。看板も読めないし、自分の名前も書けない。だから、ずるい商人にだまされても気づけない。
「よーし、今日からお姉ちゃんが先生だよ!」
広場の地面に木の枝で字を書いて、子どもたちと一緒に読む。最初は三人だった生徒が、一か月で三十人になった。
『お嬢様。公爵令嬢が地べたに座りこんで、木の枝を振り回すのはいかがなものかと』
「アルも一緒に教えてよ。字、きれいなんだから」
『……私は護衛ですので』
そう言いながら、気づけばアルフレッドは子どもたちに囲まれて、しぶしぶ字の書き方を教えていた。教え方がやたらとていねいで、子どもたちにものすごく人気だった。
そして十二歳の春。
広場で私が教えていたことを、誰かが書き留めて、一冊の本にした。題名は『だれでも読める、字のおけいこ』。
その本は、王都でも売られるようになった。
◇
《クエスト:北の村の畑が、魔物に荒らされています》
十三歳の秋。
畑を荒らしていたのは、熊の魔物だった。ふつうの熊の倍くらいある体に、真っ黒なもやがまとわりついている。
鑑定の目で見なくてもわかる。あれは、すごくよくないものだ。
『お嬢様、お下がりください』
十九歳になったアルフレッドが、剣を抜いて私の前に立った。背中が、いつの間にかものすごく大きくなっている。
「アル、あの黒いの、私が払う! そしたら倒せる?」
『……無茶をなさらないでくださいね』
「するよ!」
『でしょうね』
私は熊の魔物に駆け寄って、ごわごわの毛皮に両手を押し当てた。光が、熊の魔物を包む。黒いもやが悲鳴のような音を立てて消えていく。その一瞬のすきに、アルフレッドの剣がひらめいた。
熊の魔物が、どさりと倒れる。
画面いっぱいに、《クエスト達成!》の文字が浮かんだ。
「やったーっ!」
思わず叫んでしまって、店長に「静かにねー」と笑われた。
◇
「咲良、最近楽しそうね」
その夜、叔母さんに言われた。
「え、そう?」
「うん。前より、ちゃんと笑ってる」
どきっとした。
前の私は、ちゃんと笑っていなかったんだろうか。
気づけば、紬からゲームを預かって、もうすぐ半年になる。ゲームの中の私は、十七歳になっていた。
布団にもぐって、画面を開く。
右上のベルのマークが光っていた。でも、今日のは、いつものクエストとは違う色をしている。
《お知らせ:最近、各地で瘴気が増えています》
《魔物の動きが、活発になっています》
画面の中の空が、ほんの少しだけ、暗くなった気がした。




