赤ちゃん聖女、始動
ゲームを始めて、最初にぶつかった問題。
それは、ミルクがまずいことだった。
『サラフィーナ様が、またミルクを飲んでくださいません……』
画面の中で、乳母さんがおろおろしている。赤ちゃんの私は、哺乳瓶を前にして全力で顔をそむけていた。
わかる。わかるよ、赤ちゃんの私。
だって、哺乳瓶のまわりに、黒いもやもやが漂ってるんだもん。
「これ、鑑定の力だよね……?」
画面をじっと見る。ミルクそのものは白くてきれいなのに、混ぜてあるお湯のほうから、黒いもやが立ちのぼっている。
つまり、水が悪い。
試しに黒いもやをタップしてみると、小さな文字が浮かんだ。
《浄化しますか?》
「するする!」
画面の中の赤ちゃんの私が、小さな手を哺乳瓶に伸ばす。ぽうっと、手のひらが淡く光った。黒いもやがすうっと消えていく。
赤ちゃんの私は、哺乳瓶にかぶりついて、ごくごく飲み始めた。
『まあ……! お飲みになったわ!』
『いま、光らなかったか……?』
『き、気のせいでございますよ、旦那様』
画面の中で、お父様と乳母さんが首をかしげている。
私は布団の中で、こっそりガッツポーズをした。
◇
このゲームは、時間の進み方がおかしい。
一晩プレイすると、ゲームの中では一年くらいたっている。寝る前に「ちょっとだけ」と思って始めたら、気づけば赤ちゃんの私がよちよち歩いていて、次の日には三歳になっていた。
三歳の私は、屋敷の井戸の水が真っ黒に見えることに気づいた。使用人さんたちが、よくお腹を壊していたのはこれのせいだ。
《浄化しますか?》
もちろん、する。
井戸の水が、きらきらと光った。その年から、屋敷でお腹を壊す人はいなくなった。
五歳になると、浄化できる範囲が広がった。屋敷の井戸から、町の井戸へ。町の井戸から、公爵領ぜんぶの井戸へ。
「よし、次は食べ物だ!」
公爵領は、豊かじゃなかった。畑の作物は細くて、冬になると食べるものに困る人がいる。
鑑定の目で屋敷の倉庫を見ると、隅っこに置かれた麻袋がひとつ、ぴかぴかに光っていた。中身は、どこかの商人がおまけにくれたという、ごつごつした芋。
これだ。
五歳の私は、お屋敷の自慢の薔薇園に乗りこんで、小さなスコップで薔薇の横を掘り始めた。
『お、お、お嬢様ーっ!?』
庭師のおじいさんが、悲鳴を上げてひっくり返った。
ごめんね、おじいさん。でも、薔薇は食べられないんだよ。
◇
『本日より、お嬢様の護衛を務めます。アルフレッドと申します』
六歳の誕生日。画面の中に、黒髪の男の子が現れた。
年は十二歳くらい。騎士見習いの服を着て、灰色の目をした、ものすごく整った顔の男の子。
「うわ、イケメン……」
思わず声に出た。ゲームのキャラデザ、本当にどうなってるの。
ところがこのイケメン、ちょっと性格に問題があった。
芋畑に変わった薔薇園で、泥だらけになっている六歳の私を見下ろして、彼は完璧な礼をしながらこう言ったのだ。
『お嬢様。そのドレスで畑を耕すおつもりで?』
「……え、今、嫌味言われた?」
丁寧な言葉づかいなのに、目が完全に呆れている。
画面の中の私は、ぷうっと頬をふくらませて、アルフレッドの顔に泥をぺたりとつけた。
アルフレッドは、無言でハンカチを取り出して、それをふいた。
それから、私の手の泥も、ていねいにふいてくれた。
「……なにこのキャラ。好き」
◇
ゲームの中の私が、七歳になった夜のことだ。
夜ふかしをして、画面の中のお屋敷を、なんとなく歩かせていた。みんな寝静まって、廊下の燭台だけが、ぽつぽつと灯っている。
裏庭の、納屋の前を通りかかったとき。
画面の端に、小さな吹き出しが、ぽこんと浮かんだ。
『……っ、……っ』
声にならない、しゃくりあげる音。
納屋の扉を開けると、いちばん奥の藁の山の陰に、黒髪の男の子が、ひざを抱えてうずくまっていた。
アルフレッドだった。
いつも完璧な礼をして、いつも無表情で、六歳の私に嫌味しか言わない、あのアルフレッドが。
……そういえば。お屋敷の誰かが、今日はアルフレッドのお父さんの命日だって、話していた。
この子、七つでお父さんをなくして。行くところがなくて、この家に来たんだっけ。
画面の中の私は、扉のところで、立ちどまったままだった。選択肢も、出てこない。
「……泣かないで」
気づいたら、声に出していた。
夜中の、叔母さんの家の、狭い部屋で。だれにも聞こえないくらい、小さな声で。
「……ひとりで、泣かないで。……ハンカチ、渡してあげて」
──そのとき。
私は、ボタンを、ひとつも押していなかった。
なのに、画面の中の七歳の私が、とことこと、納屋の奥へ歩いていった。
何も聞かずに、男の子の隣に、ちょこんと座って。
エプロンのポケットから、ハンカチを一枚、差し出した。
すみっこに、へたくそな桜の刺しゅうがある。何日か前、お母様に教わって、はじめてぬったものだ。
『ひとりで泣かないで。わたしがいるから』
画面の中の私が、そう言った。
……私が、今、言ったのと、同じことを。
男の子が、ゆっくりと、顔を上げた。灰色の目が、まっ赤になっていた。
しばらく、ハンカチを見つめて。それから、ふるえる手で、受け取った。
『……ありがとう、ございます。……お嬢様』
「……え」
私は、携帯を持ったまま、固まっていた。
今の、何。
声で、動いた?
……たまたま、そういう場面だっただけ、かな。
そう思うことにして、私は携帯をそっと置いた。
布団にもぐりこんでも、胸の奥が、ずっと、ぽかぽかしていた。
ひとりで泣いている子の隣に座る、ってこと。
私も、だれかに、そうしてほしかったのかもしれない。
◇
「店長、休憩入りまーす!」
古本屋の奥の休憩スペースで、私は紬の携帯を取り出した。最近は、バイトの休憩時間もずっとこのゲームだ。
ゲームの中の私は、九歳になっていた。
芋の育て方は、お父様が領地じゅうに広めてくれた。麦も、鑑定で見つけた光る種に替えたら、去年の倍とれた。公爵家の庭はすっかり畑になって、庭師のおじいさんは今では立派な芋名人だ。
画面の右上で、小さなベルのマークが光った。
《新しいクエストがあります》
「お、なになに」
タップすると、文字が浮かび上がる。
《クエスト:東の村で、子どもが熱を出しています》
その下に、もう一行。
《どうか、どうかこの子をお救いください。神さま》
指が、止まった。
……ゲームのクエストって、こんな書き方するっけ。
まるで、誰かが本気で祈っているみたいな。
休憩室の時計の音が、やけに大きく聞こえた。




