第一部 忘れ物
応接室の空気は、冬の朝みたいに冷たかった。
窓を背にして、ひとりの青年が立っている。
銀色の髪。イザベラ様と同じ、月の光を溶かしこんだような色。背が高くて、縁に金の刺繍をした白い神官の衣を、一筋のしわもなく着こなしている。
瞳は、イザベラ様より少し濃い、夜明け前の空みたいな紫だった。
「突然の訪問をお許しください。サラフィーナ嬢」
完璧な礼。完璧な声。セドリック殿下の「完璧」とは、また違う。こちらは、笑ってすらいない。
「神殿のユリウスと申します。オルドヴィンの孫で、イザベラの兄です」
「……サラフィーナ・ローゼンベルクです」
心臓の音が、うるさい。
私の右後ろにはアルがいる。左には、お兄様が座っている。「娘ひとりで会わせるわけにはいかない」と、お父様より先に立ち上がったのだ。
「忘れ物をお届けに上がった、とうかがいましたが」
お兄様が、先に口を開いた。
「ええ」
ユリウス様は、懐から小さくたたんだ白い布を取り出して、テーブルの上に置いた。
細い指が、布をひらりと開く。
中にあったのは、一房の髪だった。
窓からの朝の光を受けて、やさしく、やさしく光る、桜色の髪。
「北の森の奥、聖域の枝に、引っかかっていました」
ユリウス様は、淡々と言った。
「この色の髪を持つ方を、私は王都でひとりしか存じ上げません」
──あんまりいないから、目立つわよ?
紬の声が、頭の奥で、ものすごく遠くに聞こえた。
紬。ごめん。本当に目立った。
◇
しばらく、誰も何も言わなかった。
沈黙を破ったのは、ユリウス様だった。
「昨日、北の森の聖域で、妹のイザベラを保護しました。妹は、『弱った結界を案じて、ひとりで祈りに来た』と申しております」
ひとりで。
イザベラ様は、約束どおり、私たちのことを言わなかったんだ。
「……イザベラ様は、今どうしているんですか」
「神殿の、祈りの塔におります」
ユリウス様の声は、少しも揺れなかった。
「聖域は、神官以外の者が足を踏み入れてはならない場所。聖女候補といえども、祖父の許しなく入ったことは、『聖域を穢した罪』にあたります。その罪が裁かれるまで、塔から出ることは許されません」
ものすごい音がした。
お兄様が、テーブルの縁をつかんだ音だった。
「……妹を、閉じこめておいて。それを、そんな顔で口にするのか」
低い声だった。いつもの、冷静な苦労人のお兄様の声じゃなかった。
ユリウス様の紫の瞳が、ゆっくりとお兄様に向けられた。
「……ローゼンベルク卿は、ずいぶんと私の妹を気にかけてくださるのですね」
「…………」
「そういえば、妹は昨日、ひどく冷えていたはずなのに、少しも凍えていませんでした。……不思議なこともあるものだと、思っていたところです」
お兄様とユリウス様のあいだで、空気がきしりと小さな音を立てた気がした。
こわい。
北の森の入り口で、お兄様とイザベラ様がにらみ合っていたときより、ずっとこわい。
◇
「……どうして、その髪を、オルドヴィン様に見せなかったんですか」
私は、思い切って聞いた。
だって、そうだ。この髪を見せられていたら、今ここに来ているのはユリウス様じゃない。神殿の兵士だ。
ユリウス様は、初めて、ほんの少しだけ黙った。
「……妹の力では、あの道は作れない」
やがて、そう言った。
「柱から要石まで、一本。瘴気が、形もなく消えていた。聖女候補として何年も祈ってきたあの子でさえ、井戸ひとつ浄化するのに、一晩かかる。……あの道を作れる者は、五十年前に姿を消した聖女以来、この国にはいないはずでした」
紫の瞳が、まっすぐ私を射抜いた。
「あなたが、何者なのか。それを、私は自分の目で確かめたかった」
──強い力を持つ者の言葉を、そのまま信じすぎないで。
紬の言葉が、ふと頭をよぎった。
この人は、オルドヴィン様の孫だ。神殿の人だ。でも、自分の目で確かめたいと言った。祖父の言葉を、そのまま信じるのではなく。
……もしかして。
「──では、本題に入りましょう」
でも、その「もしかして」は、次の言葉で、あっさりとふさがれた。
「三日後。神殿の大聖堂で、『聖女の審問』が開かれます」
「審問……?」
「王都では今、『新しい聖女が現れた』という噂が広がっている。祖父はそれを、神殿の権威を揺るがすものと考えています。ゆえに、王家と貴族、民の前で、聖女を名乗る者が本物かどうかを、神殿が見極める」
ユリウス様は、白い布で、桜色の髪をそっと包み直した。
それを、自分の懐にしまう。
……返してくれるんじゃないんだ。忘れ物、って言ったのに。
「その審問の場に、聖域を穢した者も、あわせて裁かれることになっています」
立ち上がりながら、ユリウス様は、何でもないことのように付け足した。
「あなたが来なければ。──審問にかけられるのは、イザベラひとりです」
完璧な礼をして、ユリウス様は扉に向かった。
その背中に、私は何も言えなかった。
ただ、扉の取っ手に手をかけたその一瞬。
取っ手を握る細い指の関節が、白く浮き出るほど、強く握りしめられているのが見えた。
まるで、何かを、必死にこらえているみたいに。




