第一部 五十年目の手紙
暖炉の火が、ぱち、と小さくはぜた。
湯浴みをして泥を落とし、ライザにもこもこの寝間着を着せられた私は、大叔母様の部屋にいた。小さな部屋だ。壁には古い水彩画が一枚だけ掛けられていて、そこには、花をつけた大きな木が描かれていた。
薄い桃色の花。
……桜だ。
この世界には、桜の木なんてないはずなのに。
「その絵はね、あの人が描かせたのよ」
大叔母様が、私の視線に気づいて言った。
「生まれた国の花だと言っていたわ。こちらには咲かないから、せめて絵でも見たいって。……私が五つで、あの人が十八のときよ」
大叔母様は、暖炉の前の椅子にゆっくりと腰を下ろした。
「話してあげるわ。あなたには、聞く権利がある気がするの」
◇
五十五年前。
女神スラーシュの神殿に、ひとりの少女が、光とともに現れた。
黒い髪。見たことのない服。言葉も、この国の常識も、何も知らない少女。
それが、聖女サクラだった。
「神殿は、あの人を聖女として迎えた。でも、迎えただけ。家族も、友だちも、帰る場所もない女の子を、ただ『聖女様』として祈らせていたのよ」
その聖女の護衛に選ばれたのが、公爵家の次男だった。
「兄上はね、わりと無愛想な人だったの。口数が少なくて、ぶっきらぼうで。でも、本を読むのが好きで、剣も強くて、小さい私には、とても優しかった」
ある日、その兄が、聖女を公爵家に連れて帰ってきた。
「『神殿の食事は味がしないと、泣きそうな顔で言うので。うちの厨房で食べさせてやってください』って。……父は、ひっくり返りそうになっていたわ」
大叔母様が、くすりと笑った。
それから、聖女サクラは、よく公爵家に来るようになった。厨房で焼きたてのパンを食べて、庭で花を眺めて、そして、小さなヒルダと遊んだ。
「あの人は、私の姉上みたいなものだった。寝る前には、よく生まれた国のお話をしてくれたわ。鉄の箱が空を飛ぶ国。光る板で、遠くの人と話せる国。……絵本のおとぎ話だと思っていたわ」
私は、何も言えなかった。
おばあちゃんは、こちらの世界で、日本の話をおとぎ話にしていた。
そして日本では、こちらの世界の話を、おとぎ話にしていたんだ。
「兄上とあの人が、いつから想い合うようになったのかは、知らない。ただ、兄上が笑うのを初めて見たのは、あの人の隣だったわ」
◇
そして、五十年前。
北の森から、魔物の大群が押し寄せた。
「結界を張るために、あの人は北の森へ向かった。兄上も一緒に。……それが、最後だったわ」
戦が終わって、空に桃色の結界が張られた。
でも、聖女も、騎士も、帰ってこなかった。
「数日後、神殿が発表したの。『結界は、神殿の神官たちが命を懸けて張った。聖女は、護衛の騎士をたぶらかし、戦いの最中に逃げた』と」
大叔母様の声は、静かだった。静かすぎて、その奥にあるものが、かえってよく見えた。
「父は、家を守るために、兄上の名前を口にすることを禁じた。『聖女にたぶらかされて逃げた息子』を出した家だと、世間から後ろ指をさされないように。……だから、この家では、兄上の名前は、あまり話されないのよ」
「……大叔母様は、信じたんですか。その発表を」
「信じるわけないでしょう」
大叔母様は、きっぱりと言った。
「あの人は、厨房のパンひとつにも『いただきます』って手を合わせる人だった。そんな人が、何千何万の人を見捨てて逃げるものですか。……でも、十歳の子どもの言うことを、誰が聞くというの」
◇
「……それでね、サラ」
大叔母様は、椅子の横の小さな引き出しを開けた。
取り出されたのは、古い古い、一通の手紙だった。紙はすっかり黄ばんで、端がすり切れている。何度も何度も、開いては閉じてきたのがわかる。
「北の森へ立つ前の夜、あの人が私にくれたものよ。『いつか、読める人が来たら読んでもらってね』って。……五十年、誰にも読めなかったわ」
「あの人の国の、いちばんやさしい字なんですって。子どもでも読めるからって、毎晩少しずつ、私に教えてくれていたの。私がいつか自分で読めるように、手紙もその字だけで書いてくれた。……でも、覚えきる前に、あの人はいなくなってしまったわ」
大叔母様は、その手紙を、そっと私の手に乗せた。
「……あなた、要石の字を読んだのでしょう」
心臓が、跳ねた。
「どうして……」
「その顔を見ればわかるわ。五十年前、あの人が生まれた国の話をするときも、そんな顔をしていたもの」
大叔母様は、それ以上、何も聞かなかった。
どうして読めるのかも。私が何者なのかも。
ただ、しわだらけの手で、私の手ごと手紙を包みこんだ。
「読んで。……お願い」
私は、震える指で、手紙を開いた。
丸い、やさしい、ひらがなの筆跡が、並んでいた。
──ひるだへ。
「……『ヒルダへ』」
声に出して読んだ瞬間、大叔母様の肩が、びくりと震えた。
「『いつも、わたしのおはなしをきいてくれて、ありがとう。ひとりぼっちだったわたしに、ここにいていいよって、いってくれて、ありがとう』」
暖炉の火が、ゆらりと揺れる。
「『もし、わたしたちがかえれなかったら、ごめんね。でも、えどがーは、かならずわたしがたすけます。どんなことをしても』」
喉の奥が、熱い。
でも、止まらない。止めちゃいけない。五十年、届かなかった言葉なんだから。
「『それから。いつか、わたしみたいに、とおくからひとりぼっちでくるこがいたら。──どうか、やさしくしてあげてね』」
私の声が、途切れた。
最後の一行を、私はもう、声に出して読めなかった。
──だいすきな、ひるだへ。さくらより。
大叔母様が、私を抱きしめていた。
小さな体だった。細くて、軽くて、でも、とても強い力だった。
「……そう。そうだったのね」
大叔母様の声が、私の肩の上で震えていた。
「兄上を、助けようとしてくれたのね。……逃げたんじゃなかった。やっぱり、あの人は……」
年老いた大叔母様が、小さな女の子みたいに泣いていた。
私も、泣いた。
暖炉の火が、ずっと、やさしく、ぱちぱちと鳴っていた。
◇
大叔母様の部屋を出ると、廊下はしんと冷えていた。
扉のすぐ横に、アルが立っていた。
壁に背をつけて、まっすぐ前を向いて。たぶん、ずっとそうしていたんだと思う。私が湯あみをしているあいだも、大叔母様の部屋にいるあいだも。森から帰ってきて、まだ着替えてもいないのに。
「……アル。ずっといたの?」
「護衛ですので」
いつもの答え。いつもの声。
アルは、泣きはらした私の顔を見て、ほんの少しだけ眉を寄せた。それから、何も聞かずに、白いハンカチを差し出した。
見覚えのあるハンカチだった。端に、小さく縫いとられた公爵家の紋章。六歳の私が、アルの顔に泥をつけたとき、それをふいたハンカチと、たぶん同じもの。
「……まだ持ってたの、これ」
「お嬢様が、何かと汚されるので」
「ひどい」
笑おうとしたら、また涙が出た。
ハンカチで目元を押さえながら、私はアルの顔を見上げた。
黒い髪。灰色の瞳。聖女の、護衛。
──兄上はね、わりと無愛想な人だったの。口数が少なくて、ぶっきらぼうで。
大叔母様の声が、頭の中で重なる。
「……ねえ、アル」
「はい」
「森で、私が倒れたとき。……『サラ』って、呼んだ?」
アルの動きが、ほんの一瞬、止まった。
「……お嬢様の、聞き間違いかと」
「えー、絶対呼んだよ」
「記憶にございません」
「その言い方、絶対覚えてるやつじゃん」
アルは答えなかった。ただ、すっと視線をそらして、廊下の窓の外を見た。夜の芋畑。その向こうの、北の空。
しばらくして、低い声が落ちてきた。
「……お嬢様が、遠くへ行ってしまわれるような気がしたのです」
「え?」
「要石に触れて倒れられたとき。いくらお呼びしても、目を開けてくださらなくて。……このまま、どこか、私の手の届かないところへ行ってしまわれるのではないかと」
声は静かだった。いつもの、丁寧な言葉だった。
でも、窓の外を見ているアルの横顔は、少しも、いつもどおりじゃなかった。
「……行かないよ」
私は、ハンカチを握りしめた。
「どこにも行かない。私の家は、ここだもん」
アルは、ゆっくりと私のほうを向いた。
灰色の瞳が、何かを確かめるように私を見つめる。それから、ほんのかすかに、息を吐いた。森で狼を倒したあとと、同じ吐き方だった。
「……それなら、結構です」
「アルもだよ」
「は」
「アルも、どこにも行かないでね。おじい……昔の誰かさんみたいに、ひとりで無茶して、いなくなったりしないでね」
アルは、少しだけ目を見開いた。
それから、いつものように完璧な礼をした。
「──私は、お嬢様の護衛ですので」
答えになっているような、なっていないような。
でも、その声が、いつもよりほんの少しだけやわらかかったから、私はそれで満足することにした。
「おやすみ、アル」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
部屋に入って、扉を閉める。
扉の向こうで、足音が遠ざかっていかないことに気づいたのは、ベッドにもぐりこんでから、ずいぶんたってからだった。
◇
次の朝。
泣きすぎてまぶたが重い私の部屋に、執事が、いつになく硬い顔でやってきた。
「お嬢様。……お客様です」
「お客様?」
またトマスさんかな、と思った。
でも、執事の口から出たのは、まったく違う名前だった。
「神殿の、ユリウス様がお見えです。……お嬢様に、お届けしたい忘れ物がある、と」




