第一部 桃色の記憶
さくら。
心の中で読んだ瞬間、喉の奥が、きゅうっと締めつけられた。
エルディアの字じゃない。古い神の言葉でもない。
これは、日本語だ。
それも、この丸い筆跡を、私は知っている。
小さいころ、冷蔵庫に貼られていた買い物のメモ。幼稚園のお弁当袋に書いてもらった名前。ひらがなの「さら」の「さ」が、いつもこんなふうに、ちょっとだけ丸かった。
おばあちゃんの字だ。
五十年前。結界を張った聖女。男の人と一緒に消えた聖女。大叔母様の「あの人」。
そして、エドガー。公爵家ではあまり話されない名前。大叔母様が私の髪をすくって、「兄上と同じ色」と言った人。
縁側で、お日さまに当たると、ちょっとだけピンク色に光った、おじいちゃんの白い髪。
ばらばらだったピースが、ひとつずつ、音もなくはまっていく。
「……おばあちゃん」
声が、こぼれた。
「サラフィーナさん?」
イザベラ様が、驚いたように私をのぞきこむ。
「あなた……まさか、読めるの?」
答えようとして、でも、言葉が出てこなかった。
私の手は、勝手に、その字に触れていた。
◇
──桃色の光が、はじけた。
気づくと、私は、どこか別の場所に立っていた。
同じ森だ。同じ広場だ。でも、空が赤い。日の入りでもないのに、空一面が、燃えるような赤だ。
どこかで、何かが咆哮していた。地面が揺れるほどの、大きな声。焦げたにおい。剣と剣がぶつかる音。誰かの悲鳴。
戦だ。
五十年前の。
広場の真ん中に、ひびのない、真っ白な要石があった。
その前に、ひとりの女の人が、ひざまずいていた。
黒い髪。小柄な背中。こちらの世界の服を着ているのに、どこか、私と同じにおいがする人。
女の人は、要石に両手を当てて、一心に何かをつぶやいていた。その手のひらから、桃色の光が、大きな大きな波になって、空へと広がっていく。
結界だ。
今まさに、この人が、結界を張っている。
そのとき。
赤い空が、影に覆われた。
見上げると、巨大な翼があった。漆黒の鱗。煮えたぎる紅い目。牙のあいだから、炎がこぼれている。
竜だ。
魔竜が、要石の前の女の人をめがけて、大きく口を開けた。
女の人は、動かなかった。動けないんだ。今手を離したら、結界が崩れるから。肩が震えているのに、両手だけは、要石から一度も離さない。
だめ。
だめ、逃げて。
叫ぼうとしても、声が出ない。体も動かない。私は、ただ見ていることしかできない。
炎が、吐き出された。
「──サクラっ!!」
誰かが、女の人の前に飛びこんだ。
騎士だった。
長い剣を構えて、女の人を背中にかばう。炎が、その背中を、肩を、腕を包みこむ。
炎の中で、騎士の髪が、ふわりと舞い上がった。
ピンク色だった。
私と同じ。桜の花びらみたいな、やさしいピンク色。
「エドガー!!」
女の人が、叫んだ。
その声を、私は知っていた。
寝る前に、いつも「むかしむかし、とおいとおい国にね」って話してくれた声だ。お尻をぽんぽんしながら、少しかすれて、やさしかった声だ。
騎士は、炎の中で歯を食いしばりながら、振り返らずに叫んだ。
「手を離すな! おまえは世界を守れ! ──おまえは、俺が守る!!」
光が、弾けた。
桃色の波が、空いっぱいに広がって、魔竜の巨体を押し返していく。赤い空が、少しずつ、少しずつ、桃色に染まっていく。
そして、すべてが静かになったとき。
女の人は、崩れるように要石から手を離して、倒れた騎士にすがりついていた。
「エドガー。エドガー、いや。目を開けて。いやだよ……」
女の人は、騎士の胸に手を当てた。治癒しようとしているんだ。
でも、光は、出なかった。
一粒も。
全部、結界に使ってしまったから。
「……どうして。どうして、出ないの。お願い。お願いだから……」
女の人の涙が、騎士の焦げた頬に落ちた。
その頬を、ピンク色の髪が、そっと覆っていた。
──ああ。
そうだったんだ。
おばあちゃんは、世界を捨てたんじゃない。
世界を守って、それから、たったひとりを守ろうとしたんだ。
◇
「──サラ!」
名前を呼ばれて、はっと目を開けた。
桃色の光は、もうどこにもなかった。
ひびの入った要石。黒いもや。そして、すぐ目の前に、灰色の瞳。
アルが、私を抱えていた。
「……アル?」
「要石に触れた瞬間、お倒れになったのです。いくらお呼びしても、目を開けてくださらなくて」
丁寧な言葉。いつもの声。
でも、さっき、「サラ」って呼ばなかった?
聞き返そうとして、自分の頬が濡れていることに気づいた。
泣いていた。いつの間にか。
「……おじいちゃん、だったの」
「……お嬢様?」
「おじいちゃん、だったんだよ。……おばあちゃんを守ったの、おじいちゃんだったんだ」
アルには、きっと何のことかわからない。
それでもアルは、何も聞かずに、私を抱える腕に、少しだけ力をこめた。
「──おい、まずいぞ!」
マークの声が、広場に響いた。
森の奥。西の方角。木々のあいだから、ゆらゆらと揺れる、いくつもの火が見えた。
「松明だ。……白い衣が、こっちに来る!」




