第一部 要石
「……何も、見えない」
私のつぶやきに、みんなが顔を見合わせた。
「俺には、ふつうの森に見えるけどな」
マークが、柱の向こうをのぞきこむ。そう。みんなには、たぶん、少し薄暗いだけの森に見えている。
でも、私の目には、墨の海だ。
そしてイザベラ様は、柱の前で小刻みに震えていた。お兄様の上着を、もう破れそうなほど握りしめている。
「……無理はしなくていい。引き返すなら、今だ」
お兄様が、低い声で言った。イザベラ様だけじゃなく、みんなに向けて。
イザベラ様は、ぎゅっと唇をかんで首を振った。
「……行きます。ここまで来て、何も見ずに帰れるものですか」
私も、うなずいた。
「私が前を払いながら歩きます。みんな、私の後ろから離れないで」
「お嬢様。私は前を」
「アルは私のすぐ隣。……お願い」
アルは一瞬だけ灰色の瞳を揺らして、それから黙って私の隣に並んだ。
◇
柱のあいだを、一歩、踏みこむ。
とたんに、ひやりとしたものが、肌にまとわりついた。冬のプールに飛びこんだみたいに、息が詰まる。
──消えて。
両手を前にかざすと、光が、ろうそくの火みたいに小さく広がった。その光の届くところだけ、黒いもやがすうっと退いて、緑の苔と、木の根っこが見える。
一歩。また一歩。光で道を作りながら、進む。
「……すげえ」
後ろで、マークのため息が聞こえた。
「お嬢様の通ったところだけ、空気が軽くなる。俺にもわかるぜ」
「ローゼンベルク聖女様……!」
「兄貴、感動するのは後にしろ」
いつもなら笑うところだ。でも、笑う余裕がなかった。
重い。
井戸のもやとは、全然違う。押しても押しても、すぐに奥から泥のように流れこんでくる。額から汗がつたって、あごの先から落ちた。
ふらりと、足がもつれる。
すかさず、背中に手が添えられた。アルの手だ。
そして、もうひとつ。
右側から、冷たい指が私の手に重ねられた。
「……共犯者でしょう、私たち」
イザベラ様だった。青い顔で、それでもまっすぐ前を見ている。
重ねた手から、弱いけれどあたたかい光が流れこんでくる。それが私の光と混ざって、すっと遠くまで届く。
「……うん」
私は、重ねた手をそっと握り返した。
◇
どれくらい進んだだろう。
急に、森が開けた。
丸い広場のようになった場所。その真ん中に、巨大な白い石が立っていた。
大人三人分くらいの高さ。縦に長い、たまごのような形。その表面には、細かい模様がびっしりと刻まれていて、うっすらと、淡い桃色に光っている。
要石だ。
なのに。
「……ひどい」
石の真ん中に、稲妻のようなひびが、上から下まで走っていた。そのひびから、黒いもやが、傷口から滲む血みたいに、どくどくとあふれ出している。
夜空で見た、あの黒いひび。あれは、ここからつながっていたんだ。
「お嬢様。……あれを」
アルが、広場の端を指さした。
要石をぐるりと取り囲むように、木の箱がいくつも並んでいた。
トマスさんが見たという、あの箱だ。
蓋のすきまから、アメジストみたいな紫色の石がのぞいている。そしてその石から、細い光の糸が何本も、要石に向かって伸びていた。
いや。逆だ。
光は、要石から箱の中へと、流れこんでいる。要石の桃色の光が、細い糸に引っ張られて、ちゅうちゅうと吸い取られていく。
「……魔石よ」
イザベラ様が、かすれた声で言った。
「力をためておける石。神殿の治癒の儀式で、いつも使っているものと、同じ……」
そこまで言って、イザベラ様の顔から、すうっと血の気が引いた。
「……うそよ。そんなはずはないわ。神殿の治癒の力は、代々の神官が祈りで積み上げてきたものだと、お祖父様は……」
言葉が、途切れた。
誰も、続きを言わなかった。
でも、たぶんみんな、同じことを考えていた。
神殿は、結界の力を吸い取っている。
その力で、金を取って治癒をしている。
だから、結界が、こんなにも弱っている。
「……金が足りねえって、断られたんだぞ」
マークの声が、震えていた。
「兄貴の腕をおかしくしたのは、このひびからあふれた瘴気だろ。そのひびを作ってる連中が、兄貴を金がないからって……!」
「マーク」
トマスさんが、大きな手でマークの肩をつかんだ。その手も、小さく震えていた。
◇
私は、要石に近づいていた。
自分でも、どうしてかわからない。ただ、そうしなきゃいけない気がした。
ひびの入った白い石。淡い桃色の光。
……桃色。
桜の花びらみたいな、やさしい色。
その光が、なぜかとてもなつかしかった。
石の表面に刻まれた模様を、そっと指でなぞる。光の粒が、指先にまとわりつく。あたたかい。寒い森の中で、ここだけが、小春日和みたいにあたたかい。
模様は、下のほうで、小さな字のようなものに変わっていた。
「その字は、誰にも読めないのよ」
後ろで、イザベラ様が言った。
「神殿の書物にも、同じ字の写しが残っているわ。古い神の言葉だと言われているけれど、五十年、誰ひとり読めなかったと……」
イザベラ様の声が、遠くなっていく。
私は、その字から目が離せなかった。
読めたからだ。
だって、それは。
小学校の一年生で、最初に習う字だった。
少しだけ、丸くて、やさしい筆跡の、ひらがな。
【さくら】




