第一部 北の森へ
夜明け前の北の森は、ひんやりとしていた。
「人数が、多すぎませんこと?」
森の入り口で待っていたイザベラ様が、紫の瞳を細めた。
地味な灰色の旅装に、銀色の髪をきっちりまとめている。その前に並んだのは、私、アル、マーク、トマスさん。そして。
「案内役と、護衛が二人。妹の担当が私だ。必要最低限だと思うが」
眼鏡を押し上げながら、お兄様が言った。
却下だ、と言っていたお兄様は、結局いちばんに旅支度を整えていた。自分の分だけじゃなく、全員分の水と、地図と、懐中時計と、なぜか予備の靴下まで。
「妹の担当……?」
「この子が暴走したときに、止める役だ」
「お兄様、紹介の仕方!」
イザベラ様は、お兄様を頭のてっぺんからつま先までじろりと見た。
「ルーカス・ローゼンベルク様。お噂はかねがね。王立学院を首席で卒業されたとか」
「それはどうも。こちらも、イザベラ嬢のお噂はかねがね。幼いころから、神殿で一日も欠かさず祈ってこられたとか」
「…………」
「…………」
なんだろう。
どちらも褒めているはずなのに、空気がぴりぴりしている。
◇
「では、道順を確認する」
お兄様が、倒した丸太の上に地図を広げた。
「警護隊の討伐路をたどって、昨日トマス殿から聞いた地点まで。そこから先は、石の柱に沿って西へ回りこむ。日没までには必ず森を出る」
「西はだめよ」
イザベラ様が、すかさず言った。
「西側には、神殿の見張り小屋があるの。東から入るべきですわ」
「東は沢地だ。足場が悪い。妹の足では、日没までに戻れない」
「見張りに見つかるより、ずっとましですわ。……段取りが杜撰ですわね」
「あなたこそ、もう少し融通を利かせてはどうだ」
「…………」
「…………」
にらみ合う二人のあいだで、火花が散っている。
「……なあ、お嬢様」
マークが、私の耳元でこそっと言った。
「あんたんとこの兄貴と銀髪のお嬢様って、もともと仲悪いのか?」
「たぶん、今日が初対面……」
「初対面でこれかよ」
結局、道はマークが決めた。「真ん中に、猟師しか知らない獣道がある」。二人はそろって黙りこんだ。
◇
森の奥へ進むほど、空気が冷たくなっていった。
朝なのに、日の光が届かない。木々の葉が、どこかくすんだ色をしている。
鑑定の目で見ると、もう間違いなかった。木の幹の影、草むらの底、小川の水面。あちこちに、薄い黒いもやが、霧みたいにただよっている。
「……っ」
隣で、イザベラ様が、自分の腕を抱くようにして立ち止まった。顔色が、真っ青だ。
「イザベラ様?」
「……平気よ。少し、寒いだけ」
寒いんじゃない。たぶん、感じているんだ。この森じゅうの瘴気を。私が「見える」よりも、ずっとつらい形で。
声をかけようとした、そのとき。
ふわりと、イザベラ様の肩に、濃い色の上着がかけられた。
お兄様だった。
何も言わずに上着をかけて、何も言わずに地図に目を戻して、そのまま先に歩き出していく。
「……ちょっと。これは何のつもり」
「顔色が悪い。倒れられたら、日没までに戻れない」
「……やっぱり段取りの話なのね」
「そうだ」
お兄様は、それきり振り返らなかった。
イザベラ様は、お兄様の背中をしばらく見ていた。それから、肩にかけられた上着のえりを、きゅっと握りしめた。
何か言いかけるように、小さく口を開いて。でも結局、何も言わずに、また前を向いて歩き出した。
……やっぱり、寒いのかな。
私は首をかしげて、それから先を急いだ。
◇
「──止まってください」
先頭を歩いていたアルが、剣の柄に手をかけた。
同時に、トマスさんも、大きな体を私の前にすべりこませる。
草むらが、がさりと揺れた。
うなり声。獣のにおい。そして、鑑定の目にもうつる、羊毛みたいにもこもこと詰まった、真っ黒なもや。
狼だ。三匹。ふつうの狼よりひとまわり大きくて、目が赤く光っている。
「魔物だ! 瘴気をまとってる!」
「お嬢様、お下がりください」
「ローゼンベルク聖女様、お下がりを!」
「その呼び方、今はいいから!」
狼が一匹、地面を蹴った。
アルの剣が、光った。いや、光ったようにしか見えなかった。速すぎて。狼は空中で体をひねって着地し、そのまま低くうなる。剣を受けたはずなのに、倒れない。
「……硬い」
アルが、小さく舌打ちした。
瘴気だ。あのもやが、狼を鉄みたいに強くしている。ゲームの熊の魔物と同じだ。あのときも、もやを払ってから、アルが倒した。
「アル! あの黒いの、私が払う!」
「……無茶をなさらないでくださいね」
「するよ!」
「でしょうね」
ゲームと、まったく同じやりとり。
なのに、今は全然、笑えない。心臓が、耳の奥でどくどく鳴っている。画面の向こうじゃない。本物の牙が、本物のアルに向かっている。
私は両手を広げて、狼たちに光を向けた。
でも、黒いもやは、ゆらりと揺れただけだった。
濃すぎる。井戸のときみたいに、直接触れないと届かない。
触れないと。
考えるより先に、足が動いていた。
「お嬢様!?」
アルの剣をかいくぐって飛びかかってきた一匹に、私は自分から駆け寄った。赤い目。むき出しの牙。生臭い息。
怖い。すごく怖い。でも。
──消えて!
両手を、狼の首元の毛皮に押し当てる。手のひらが焼けるように熱くなって、光が弾けた。黒いもやが、悲鳴のような音を立ててはがれていく。
次の瞬間、ものすごい力で後ろに引き倒された。
アルの腕だった。私を胸に抱えこむようにして背中で守りながら、片手の剣がひらめく。もやを失った狼は、今度こそ地面に倒れた。
残りの二匹のもやも、薄れていた。触れた一匹から、光が広がったのかもしれない。トマスさんの剣が一匹を倒し、最後の一匹は、きゃんと鳴いて森の奥へ逃げていった。
「……ふぅ」
へなへなと座りこもうとして、できなかった。アルの腕が、まだ私をつかんだままだったから。
「お嬢様」
低い声。
「……今、何をなさったのですか」
「え、えっと、もやが濃くて、触らないと払えなくて……」
「狼の、牙の前に。ご自分から、飛びこんで」
アルの声が、かすかに震えていた。丁寧な言葉なのに、ちっとも落ち着いていない。
「……ごめん」
「おけがは」
「ないよ」
「…………」
灰色の瞳が、私の顔を、手を、腕を、ひとつずつ確かめるように見る。それから、アルは長く、長く息を吐いた。
いつもの、呆れたため息じゃなかった。
もっと違う。もっと……何かを必死にこらえているような。
「……次からは、必ず私の後ろから手を伸ばしてください。お嬢様の手が届くところまで、私が必ずお連れします」
「……うん」
つかまれた腕が、少しだけ痛かった。
でも、離してとは、言えなかった。
◇
「……ここだ」
それから、どれくらい歩いただろう。
トマスさんが立ち止まった先に、それはあった。
白い石の柱。大人の背丈より少し高い柱が、木々のあいだに等間隔で並んでいて、ずっとずっと左右へ続いている。柱の表面には、羽を広げた小鳥の紋章が彫られていた。
「聖域の境よ」
イザベラ様が、かすれた声で言った。お兄様の上着を、まだぎゅっと握りしめている。
「この先に、要石があるはず」
私は、柱のあいだから、その向こうをのぞきこんだ。
そして。
息が、止まった。
こちら側の森は、薄いもやがただようだけだった。
でも、柱の向こうは。
真っ黒だった。
木も、草も、空も、全部。墨を流しこんだみたいに、どろりとした黒いもやに塗りつぶされて、何も見えなかった。




