第一部 聖女様の信者
井戸めぐりの次の日。私は、お昼過ぎまでベッドから出られなかった。
五つも井戸を浄化して、最後にイザベラ様ともうひとつ。体が、鉄のかたまりみたいに重い。ゲームでは「疲労」のゲージが減るだけだったのに。本物の疲労、つらい。
「お嬢様ーっ! お客様です!」
扉が開く。ライザの声が、いつもの三割増しで弾んでいた。
「お客様……? 誰?」
「お嬢様の、信者です!」
「信者!?」
◇
応接室の床に、大きな男の人がひざまずいていた。
年は二十二、三くらい。茶色い短い髪に、日に焼けた頬。肩幅がアルより広い。その大きな手に、野の花をたくさん束ねた花束を、そっと抱えている。
……あ。舞踏会の、壁際の騎士さんだ。
「聖女様!!」
部屋に入った瞬間、大きな声が響いた。
「せ、せい……?」
「自分は、王都警護隊のトマスと申します! 先日の舞踏会で、聖女様にこの腕を救っていただきました! どうしてもお礼を申し上げたく、参上いたしました!」
声が大きい。とにかく声が大きい。窓ガラスがびりびりしている気がする。
「ちょ、ちょっと待ってください。その、聖女というのは、まだ……」
「わかっております! 公にはされていない。ですので、自分の心の中でだけ、聖女様とお呼びします!」
「全然心の中じゃないですよね!?」
部屋じゅうに響きわたっている。
後ろで、アルが、すっと一歩前に出た。
「……トマス殿」
声が、冷たい。いつもの丁寧語なのに、部屋の温度が三度くらい下がった気がする。
「お嬢様のためにも、どうかお声を低く。それと、お嬢様は公爵令嬢でございます。そのような呼び方は、お控えいただきたい」
「はっ! 失礼しました! では、何とお呼びすればよろしいでしょうか!」
「……『ローゼンベルク様』でよろしいかと」
「はっ! ローゼンベルク聖女様!」
「混ざっています」
アルの目が、ものすごく遠くなった。
◇
「兄貴ーーっ!!」
そこへ、応接室の扉をぶち破る勢いで、マークが飛びこんできた。
「やめとけって言っただろ!? 公爵家に花束持って押しかけるやつがどこにいんだよ!」
「マーク! おまえも来たのか!」
「来たんじゃねえよ、止めに来たんだよ!」
マークは、トマスさんの大きな背中をばしばし叩いて、それから私にむかって、両手を合わせた。
「悪い。うちの兄貴、悪いやつじゃねえんだ。ただ、ちょっとまっすぐすぎて、加減ってもんを知らないだけで」
「マーク、聖女様に対して失礼だぞ」
「だからその呼び方やめろって!」
兄弟が言い合う横で、ライザがうっとりと手を組んでいた。
「すばらしいです……! お嬢様のすばらしさをわかってくれる人が、またひとり……!」
「ライザ、喜ばないで……」
どうしよう。収拾がつかない。
部屋の入り口で、のぞきに来たお兄様が、眼鏡を外して目頭を押さえていた。
◇
「……それで、トマスさん。腕は、もう大丈夫ですか」
ようやくみんなが座って、お茶が行きわたったところで、私は聞いた。
「はい! このとおりです!」
トマスさんは、右腕をぶんぶんと回してみせた。そのたびに、お茶のカップが揺れて、ライザがあわてて押さえている。
鑑定の目で見ても、もう黒いもやはどこにもない。よかった。
「……あの、ひとつ聞いてもいいですか。その腕、どこで怪我をしたんですか」
トマスさんの顔から、ふっと笑顔が消えた。
「……北の森です」
マークも、ちらりと兄の顔を見た。
「警護隊は、数か月に一度、北の森の魔物を間引くために討伐に出ます。でも最近は、魔物の数がどんどん増えていて。それも、森の奥に行くほど、様子のおかしいやつが多いんです」
「奥に行くほど……」
「はい。でも、あるところから先は、神殿の命令で入れないんです。石の柱が並んでいて、そこから先は『聖域』だから、と」
聖域。イザベラ様の言っていた、要石のある場所だ。
「この怪我も、その石の柱のすぐ手前でやられました。柱の向こうから、いきなり魔物が飛び出してきて。……それと」
トマスさんは、少しだけ声を落とした。あの大きな声の人が、だ。
「これは、仲間にも言っていないんですが。怪我をした夜、野営地から、柱の向こうへ入っていく火の列を見たんです。白い衣を着た人たちが、大きな箱を担いで」
「白い衣……」
「神殿の方々だと思います。祈りの儀式か何かだろうと、そのときは思ったんですが……」
トマスさんは、右腕をそっとさすった。
「その夜から、この腕が、おかしくなり始めたんです」
部屋が、しんとした。
さっきまでの大騒ぎが、嘘みたいだった。
◇
トマスさんとマークが帰ったあと。
テーブルの上には、野の花の花束が残されていた。
帰り際、トマスさんはもう一度ひざまずいて、「自分の剣は、いつでもローゼンベルク聖女様のために!」と叫んでいった。ちょっと重い。そして、やっぱり混ざっている。
「……お嬢様」
アルが、花束を見下ろしていた。
「花瓶に、生けておきましょうか」
「あ、うん。お願い」
「……かしこまりました」
アルは花束を持ち上げて、じっと見つめた。それから、なぜかいちばん小さな花瓶を選んで、ぎゅうぎゅうに押しこんだ。
……あれ?
もうちょっと大きい花瓶、あったよね?
聞こうとしたとき、扉を叩く音がした。
「お嬢様、お手紙です」
執事が差し出したのは、素っ気ない白い封筒だった。差出人の名前はない。
でも、封を開けた瞬間、わかった。細くて、きちんとしていて、少しだけ緊張したような字。
『三日後、祖父は王宮の会議で一日じゅう神殿を空けます。 北の森へ行くなら、その日しかありません。 ──共犯者より』




